--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2016-12-17

他人がわたしに求めること

子供のころから、妙なずれがあったように、思える。

他人が私に求めることと、私が私に求めることが異なるのだ。
親は、成績がよく品行方正であることを私に求めていたように思ったが、私はどっちかというと成績なんてものはどうでもよく、楽しい勉強をしたかったように思える(だから、あまり勉強ということは好きではない。ちょっと難解な本を読んでいても、勉強や課題となるとものすごくつまらなくなるのだ、これが。そして興味を失う)。

それは、親に限ったことではなかった。
クラスメートの、私に求めるもの。私がやりたいもの。
微妙に、異なっていた。

中学時代、アニメ雑誌を楽しげに読んでいた私を、クラスのちょっと意地の悪い子が「そんなもの読むなんて意外だ、信じられない」と(少しばかり羨ましげに)言ったのがすごく意外だった。もしかして私は、彼女からは文化的なものに一切興味のない勉強しか興味のない真面目チャーンとでも思われていたのだろうか。
今の私なら、「おおおおそんなに言うならそうなりたかったわー、今頃、超現実的な司法書士あたりにはなってたわー、収入今の十倍くらいになってたわー、親自慢が止まらんかったわー」と抗議することだと……まあ、思う。もちろん私には司法書士様になる頭なぞ存在しない。
実際、彼女は私をどう見ていたのか、ちょっと聞いてみたいものである。興味本位で。
でも多分、実際の私の感覚とは大幅にずれた、何か妙なものだったのだろうなあと、的外れな人物像だったのだろうなあと、そう、思っている。

40代になってから、私を取り巻く環境が2レベルくらい低いものに変わってきたように、思う。
知性のある人となかなか、話ができなくなった。他愛のない話題すらも、できなくなった。
代わって、文化的なものを憎む表情を浮かべる人と接することが多くなってしまい、そういう職場に私はいられなくて、転職を繰り返した。わずかな貯金はみるみるなくなり、実のところ、半分死にかけながら今の職場になんとか滑り込めた。
ここで今の職場を失ったら、もう私には行き場がない。様々な理由があるのだが、本当に、行き詰まりを感じるのだ。

家族は、何も知らない。
うん。知らなくてよいと思う。
読んだ人しか、知らない。でも結構、読んでるのだろうと思う(笑)。

おそらくは、バカの相手をする時間が長すぎたのだと思う。バカは、自分のことを大変に偉いと思っているので、相対的に自分の周りをバカにするのだろう。私は彼らにかまいすぎて、自分の評判を落とした。
そして、その評判に見合った――大抵それは、私と話が合わない――人々しか、残らなかった。

彼らの概念は、ものすごい。
自分の気に入らない人間が笑顔になることは、すなわちその人間があくどい事をして得をしたのだと自動的に解釈する。
人を褒めたり、認めたり、誰かの幸せを祈るという事柄を、上っ面というか、何か別のものとしてしか理解できない。
「人の好さ」という項目を、全方向から低評価で嬲る。
それなのに、自分は誰よりも素晴らしい人間に見られたいという態度を隠せない。

私は殆どのグループ活動をあきらめた。
どこに行っても、彼らと同じ人種がいる。どんなに物知りであっても、そんな性格の人とは分かり合えない。
何か彼らは、自分たちだけが安全圏に逃げ込んだうえで、目を付けた気に入らない人間を卑怯な口で攻撃するように見えるのだ。

今回、少し理解のあった知人から新年会への誘いがあった。本当に小さな会で、こちらもそもそもが来賓扱いでもなんでもない、会費を払わねばならない招待客の末席にほど近い席だというのに、これにまた壁を作ろうとおかしな言葉を投げつけてくる連中がいる。
いやもう、勘弁してください。
友達くらい、選ばしてください。
あなた方の友達にはなれません。だってあなたは私の何を理解して下さってるんですか。今回だって誤解してるからワケわからんこと言ってきてるんでしょう、ムリです、とても無理。
ごめん、本当にごめん、申し訳ないけど、私には興味を持たないで下さい。
スポンサーサイト
2016-10-17

自分と向き合いすぎると死にたくなるよね。

実のところ、非常に困惑しているのである。

滅多なことが言えないのでここに書こうかどうか悩んだのだが、ちょっと自分としても危険な状態だと思ったので、息継ぎみたいな感覚で書くことにする。
んー、もしかしたら今の自分は生命の危機なのではないだろうか、という不安。
簡単に言うと、「死ぬんじゃないか」っていう不安なんですよ。どうもそういうのが出てきているらしいです。
というのは、ここ何日間か一人でえんえん考え込んでいて、書物も読んでいたりしたんだけど、どうも同じ結論にしかたどり着かないのですよ。そういうのは人に話すもんじゃないし、傾向の違う別ブログでは指の股が裂けても打ち込んではならない言葉なので、こういうルサンチマン上等のブログに移動してきたと。

あんまりオザケンとか、私の人生歴には関係ないのだけどね。
たまに、聴きたくなる。

何で死にかけているのか。よく分からない。多分、このまま生きていてもこのまんまなんじゃないかっていう失望しかないせいかとも思う。
衣食住は、今のところ普通に確保できている。家族もいるし、表面的にも私は興か不幸か非常に平和気な、人の好い容姿をしていて(別段美しいわけではないが)、こういう切羽詰まったことなんて周りには何億光年か先のことだと思われているに違いないという自信は、正直なところ、ある。


だが自分のできること、本来の能力を考えた場合、「このまま」をつづけるのは、ちょっとしんどすぎる気がする。
結婚生活が合わないのかもしれないし、東京という感傷的でせわしない街が合わないのかもしれない。下手をすれば日本という国が私には合わないのかもしれない。
でももし、「生きる」ということがそもそも私に合わないのだとしたら、どうだろうか。

私の総てを追い立てているものが、びっくりするほど幼稚で直情的な不幸感であることは、判明している。ちょうど私はオオカミの群れに山の頂上まで追い立てられていく山羊のようなもので、登ること自体は苦ではないけれども、山羊の足がかりを見たボルダリングの上手なオオカミたちは、能力以上の高みまで彼らをひっぱることに成功していて、なお、私を追い立てる。
山のてっぺんなんぞ、苔の一枚だって生えていない。滑落したら死ぬしかない。オオカミたちはそれを待っている。

あるいは、その「瀬戸際」のようなものがただの壁のらくがきのようなもので、実際の私はただの睡眠不足なのかもしれない。ただ、その区別が私にはどうもつかない。つかなくなってきている。

文学は、文芸は基本的に、弱い人間のものであると私は考えている。小学校に上がる前から物語のようなものを考えていた私にとっては、紙の上の世界は上手くいかない自分の現実から、いっとき自分を解放するものだった。
同時に、自分のお手本通りに行かない不器用な作法を誰がとがめるでもなく、反省して次につなげるためのきっかけであったように思える。
アスペとかADHDとか、知らん。実際に彼らと向き合った教育者たる身内から「お前はそれではない」とはっきり宣告されているから違うのだろう。けれども、こんなことでわざわざ自己補強せねばならない私は、果たして強いのだろうか。「生きるの向いてない族」なんではないだろうか。

それでも、身内の誰一人として、私がそこまで悩んでいることを認めようとしないのである。「掃いて捨てるほどいる悲劇のヒロインですか」っていう、お前のほうが掃いて捨てるほどいる凡表現の塊だと言いたくなるようなひとびとに。
私という人間は、よくよく、おめでたい容姿でもしているのだろうなあ。七福神の誰かであるかのように。

ああ、そう言えば七福神の乗る宝舟ってのは、あれは海の上ではたいへんな凶兆なのだ。人が死ぬ嵐の前兆とか、そういった類の。
宝舟に乗せられたのは本当は神じゃないんだろうな。きっと海の神様への生贄で、生きるの向いてなかった人々なんだろうな。でもそれじゃ呪いの舟になっちゃうから、あえて神様を乗せて描いてるんだろうな。


2016-10-15

長い夜

昼夜逆転をどうにかするためにいろいろ錯誤しているのだが、これといった解決策がない。
今年の夏体調を崩してしばらく飲めなかったコーヒーも飲めるようになり、緑茶紅茶も含めてカフェインコントロールしているのだが、飲むなり昼寝という奇行に出てしまうあたり、あまり効いていない模様である。
その中で、川上弘美あたりがどこかでつぶやいていた「秋の夜長の読書」が結構有効だということをご報告。

ところで読書が好きな人にありがちなのだが、「積ん読」、ここを読まれた皆さまはどうなさっていますか。

我が家は……だいたいご想像の通りで、本をブックオフに流すか、本棚を増やすか瀬戸際に立たされて長い。長いということは、もうそろそろ限界が近いということである。ぼんやりしている間にご近所の書店・古書店は次々に閉店してしまい、チェーン店ばかりが目立つようになってきている。もっとも美しい状態で流したいのも山々なのだが、カバーごとある程度表紙などが傷んでくるともううちの子にしてしまえ、という気持ちにもなってくる。
のみならず、ついで買いした文庫本などもいつまでも読破することなく、本棚の脇に積まれたままである。
本当にどうしたらいいのだろうか。ポール・ギャリコとか、数頁読んで合わなくて結局読み進めていない。誰か楽しい読み方をおしえてください。
だいたい猫の出てくる小説は実物の猫に比べてどうして退屈なものが多いのだろう。謎だ。犬は洋の東西を問わず感動巨編が結構出てくるというのに。猫はネット画像や岩合光昭の写真集や竹本泉のマンガで、私は充分である。煽り商法などいろいろあるが、猫の写真だけがかわいい某作など立ち読み十秒で終了したのはいい思い出。
ついで買いというと、マーガレット・ミラーもミランダ・ジュライも止まっている。理由はよく分からない。「こういう小説を書ける素敵な私」というのが透けて見えるからだろうか。そしてその素敵さがきっと、私には今ひとつピンとこないからなのだろうか。
で、最近の私が読んでいるのはもっぱら「枕草子」と「リルケ詩集」である。どちらも古典。枕草子はこの年齢になるまで良さがよく分からなかった。が、ある時必要に駆られて読んで奥深さに自分でもびっくりするほど感動した。この随筆は明らかに子供向きではないと思った。清少納言はやはり、明らかに天才であった。
また、リルケは、この人の着目した風景が気に入っている。哲学的な考察などは勉強不足であまりよく分からないものも多いが、大変、しみじみとする。一度で読んでいても呑み込めないので、必ず二度読み。そしてなんと美しくて静謐な世界なのだろうと感動する。20世紀の前半、第一次世界大戦の前後から二次大戦前までのあの時代。多くの人々が賞賛して余りあるあのノスタルジックな時代。戦後、日本ですら多分都会にあふれた自称文人・詩人の多くが焦がれた古いヨーロッパ。そういったゆっくりとした時代をそんなものとうに過ぎ去ってしまった現代で味わうというのは、自嘲であろうか(まあでも、そうやっちゃうんですけどね。書物に憑かれた人って、多かれ少なかれどっかマゾヒストなところってあると思うの)。

最近、世の中が小さなことでひどく大騒ぎするように感じる。皆多分、やたらに騒ぐことで、何か自分の心の中の悪いものを追い出したいと思うのだろうか。
ああそういえば、今月は出雲以外は土地神様は不在だった。自分のことは自分でということか。I'll do it myself.
今月だけでなく、いつもそうなのであれば、なんと浮ついた、落ち着きのない世の中になってしまったのだろうと嘆きもするのだが。
2016-09-22

真夜中のプーアール茶

突然だが、仕事がない。

40過ぎて、突然仕事が不安定になった。女は年齢的な問題があって、民間企業では専門職や相当仕事に評価があるものを除いては、ある時期を過ぎるとこんなふうに職務グレードが下がる傾向にある。若者に多い、ワープアと言われる女性も多いのだと思う。
企業面接を受ける度に思う、「あなたにはご主人がいるのでしょう、ローンだって組んでないでしょう」と言わんばかりの面接官の態度。
そもそも専業主婦をやれるのなら、20年間も働いているわけがない。家人は専業主婦を認めないんだとやんわりと説明しても、へらへらと笑って聞かなかったふりをする。ああ、そういえば多くの企業の面接官は、私と年齢が近い。もうそんな年になってしまったのだと思う。
で、最近の私はもう一か月ばかり、夜にまったく眠れなくて困っている。一晩中寝返りを打ち続け、明け方散歩に行った後に「ハヤクハタラケ」と小言を言う家人を会社に追い出し、もうろうとした頭でシャワーを浴びて崩れるように暑苦しい布団に戻る。
そしてなぜかその時になって身体がまさに、寝とぼけた睡眠を要求するのだ。
何をやっても、この昼夜逆転が改善しない。40前から薄々寝つきのわるい傾向はあったが、それに加えて仕事に恵まれない状態が追い打ちをかけているのだと思う。
別段布団シーツの上をのたうっていても、完全にお目目ぱっちり元気溌剌というわけではない。疲労したまま何時間も意識だけさえているのだ。そんな私の寝姿は、昼寝をしている犬や猫に似ている。あの、「別に寝なくてもいいんだけれども何もやることがないから寝ているんだ」という、諦めたような眠り姿。
犬や猫はかわいくて好きだ。でも、人間ではない。
私は人間なのだ。

純文学から少し引いて、長年の課題であった分野を学んでいるのだが、よく分からないが全体に空気の抵抗が多いような気がする。
園芸趣味を始めた頃、通りすがりの子から何を思われたか「来ないで!」とヒステリックに喚かれたことはいい思い出だ(笑)。それと同じで、私は実のところ、自分が8月も後半にさしかかってから始めた夏休みの宿題を「お前なんて宿題を提出できるはずがない、だから(俺らと一緒に)先生に怒られてろよ劣等生」と詰られている気分なのだ。

ごめん、優等生のつもりはもちろんさらさらないけど、別に劣等生ってわけでもないんだ私。

とかいうと、昨今では突然切れたり笑いものにしたり、リアクションの忙しい方がよく目につく。まあ、その手のアピールをする方々は、私など放っておいてご自分の評価をもう少しばかりあげたほうがよろしいのではないか、と思う。
私は仕事が安定しないことが目下の課題で、彼らにかまっている余裕がない。そこで昼夜逆転と闘いつつ、限られた時間帯でメリハリをつけるようにやっているのだけれども、そこにすら干渉が入る。
「筆を折れ」という干渉だ。

アマチュアであれ、プロであれ、断筆をコールされるのはぞっとすることである。
断筆など、多少の教養のある人間なら赤の他人にはふつう言わない。ところが、なぜだかある種の人々はこの断筆命令を非常に軽々しく行うのだ。文芸に親しみのない家庭で育った人々なのだろうか、とも邪推したが、そうとも限らない気がする。
今の世の中は難しい。ネットでは軽蔑と怨嗟が満ちていて、基本的人権は名ばかりで人間の尊厳は守られない。臭いものには蓋をし、弱者の訴えはなかったことにされ、若者の間では「夢」は事実上の「夢」になりつつあり、逃げ場所を求めて電子空間を放浪する人々は膨れ上がっている。
「子供」という表記を「子ども」に、「障害者」という表記を「障がい者」にしろ、という主張が児童福祉のあたりから上がって久しいが、こういった問題はキーボードを扱う世代ではもはや時代遅れであり、アナグラム遊びで頭を半ばおかしくした若者に「辞書通りの意味で言葉を理解しろ」と言わなければ、日本語を使っているのに言葉も通じない(実際私も、あまりにひどい状態に人間関係そのものが不可能になった人々もいた)。
言葉をないがしろにするということは、こういった「タブー」「はばかり」を軽視するということである。
言葉は生き、常に形を変えるものなので、昔の法則を後生大事に押し付けるのはよろしくないという傾向があるのだが、それでは年々報告数の増える児童虐待や、「やまゆり園事件」などは、どう説明するのだろうか。表面だけ美しくしても、内情は変わらない。ならどうしてわざわざ表記を変えようとするのか。流転してよい言葉と変えてはいけない言葉とは明らかに別れるのではないか。その基準を考える文部科学省や学者先生など「えらいひと」が実のところ浮世では軽視されているから、むしろ、そうなってしまっているのではないか。

そんなとりとめもないことを、眠れぬ時間帯に、えんえん、考え続ける。
例えば福祉など公的文書に触れたりするときは私だって「子ども」「障がい者」と表記するのだろう。それがルールであり、場の尊重、マナーだからだ。
ただだからといって電脳社会を含めた今の荒れた創作世界の実情に蓋をすることは私にはできない。同時に、職業安定所に通うことも、執筆や勉強をつづけながらでも、やめることはできないのである。
2016-06-19

なぜ、書くのか

 だいぶ間が空いた。
 と、もう何度目かになる。ここは時間を作るか、或いはどうしても言いたいこと、書きおきたいことがあるのみ開くので、平気で何か月も何年も放置することがある。

 なぜ、書くのかを少し書き残しておくことにする。
 私はよく記憶に残っていないが、物心ついた時から何か、「おはなし」を綴っていたような子供だった。田舎に住んでいたというのに親が当時東京で流行っていた知育図書を定期購入していたせいかもしれないが、歌と物語は日常であり、当時のレコードはすりきれるまで何度も繰り返し聴いた。
 ただ、恐らく同じもので教育された人々が別に全員創作に興味を持つことはなかっただろうから、私の行動はやはり、生まれもっての特性であったのだろうと思っている。

 レアである。

 フィクションに親しむ今の若者から見たら考えられないほどレアな特質で、理解されないところもあり、苦労も多かったことを記憶している。

 年齢が上がって、創作というものは私の中では相変わらず当たり前の行動ではあったが、だんだんと「創作に親しむ」というのは別に自分だけのものでも、特別に偉い人だけの趣味ということでもなく、同輩は他にもちらほらいるということに気付いた。たくさん、仲良くなって、喧嘩もして、幾例かは不幸な結末に終わった。本当に偉い人も知ったし、呆れた連中が大勢いることも知った。
 創作者としてごく当たり前の成長を続けていく上で、何度か考えることがあった。

 なぜ、書くのか。

 もう若くない私は、若い人々と完全に同じスタートラインに立つことは無理なように思える。
 しかしながら、この青臭い疑問だけは魚の糞のようにいつまでも自分の後を追いかけて来るので、こうして度々立ち止まって、考えることになった。
 今回もそうである。

 若いころはさまざまな冒険を試みるものだが、原動力は何かというと「経験と教育によって得た己の思想を無知蒙昧な他人に啓蒙したい」という、あまりにも前のめりな熱情なのではないか、と思う。
 若者の啓蒙活動というのは大概、向こう見ずで野卑で独善的で、そして純粋でひたむきなものである。新しい発想力と膨大な知識を若く柔軟な脳が見事に使いこなしているのだから、そうなってしまうのは当然と言えば当然の結果であり、そして年齢が上の者はその暴走しがちな思想を「若い」の一言でにこやかに片づけて見守っているものである。
 それが理由で小説を書くようになっているであろう人も、何人か私は見てきた。

 これは小さいころから書いてきた私とは、系統の違う創作への情熱である。私は物語がつまらないとか、行き詰ったと思ったら「放置」を基本づけてきた。私の創作態度というのはあくまでも、根っこのところで私的なものであり、公的な意識は少なかったからである。
 ただ創作者のステージとしてどうしても公的意識が必要になってきており、創作態度もそういったものが求められるようになってきたのは、合点がいかないながらも了承せねばならず、只今しぶしぶといった体で行っているのもまた事実である。

 さて、若者の創作における啓蒙活動というのは「温故知新」と「地域理解」が一旦の終着点になるように思える。これで創作に対する情熱がすっかり冷めてしまう人も多いように思える。痛みを伴うバッドエンドであり、もしそういう立場であったとしても、私もこういった気の抜けた結末は認めたいとは思えない。
 そこで結局のところ続けざるを得ないのだが、ステージ上では公的態度を求められているにも拘らず、頭の中では私的なものだけを求めてしまうことになる。
 まるで文芸同人誌の編集者のような気持ちだ。

 公的態度と公的意識をリンクさせるには、やはり理解者というものが必要になるのであり、しかしその理解者はなかなか一般的なポジションの人々には得られにくい。彼らは若いころの私が旨としてきた創作への情熱と同じで、いつでも、つまらないとか、行き詰ったと思ったら「放置」を基本づけているのである。だから、無理強いをすることはよくない。だから多くの創作者が「騙す」という手段に向かうのであろう、これもたくさん見てきた。

 何が言いたいのか、ちょっと分からなくなってきてしまった。
 そう、なぜ、書くのか。一体なぜ。

「素晴らしい自分を理解してもらいたい」という、熱病や誇大妄想に似た考えはない。
私の創作態度に野心はない。
しかしどうしても書かずにはいられない理由はどこにあるのかというと、恐らくそれは他人との距離感に由来するような、ある種の「渇き」なのではないかという結論に達する。渇望が理由でないとしたら、息苦しさか。湿度80%、室温30度近い締め切った暗い部屋で、精油(アロマオイル)を嗅ぎ続けなければならない鬱陶しさとも言える。
緊急に、冷たい水と新鮮な空気、酸素が必要なのである。

求めても得られないから、私は書く。
それだけのことであろうか。
プロフィール

Chiduru.Y.

Author:Chiduru.Y.
小説を書いています。
しばらく更新が途絶えていましたが、また肩の力を抜きつつぼちぼち書いていこうと思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。