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2016-10-15

長い夜

昼夜逆転をどうにかするためにいろいろ錯誤しているのだが、これといった解決策がない。
今年の夏体調を崩してしばらく飲めなかったコーヒーも飲めるようになり、緑茶紅茶も含めてカフェインコントロールしているのだが、飲むなり昼寝という奇行に出てしまうあたり、あまり効いていない模様である。
その中で、川上弘美あたりがどこかでつぶやいていた「秋の夜長の読書」が結構有効だということをご報告。

ところで読書が好きな人にありがちなのだが、「積ん読」、ここを読まれた皆さまはどうなさっていますか。

我が家は……だいたいご想像の通りで、本をブックオフに流すか、本棚を増やすか瀬戸際に立たされて長い。長いということは、もうそろそろ限界が近いということである。ぼんやりしている間にご近所の書店・古書店は次々に閉店してしまい、チェーン店ばかりが目立つようになってきている。もっとも美しい状態で流したいのも山々なのだが、カバーごとある程度表紙などが傷んでくるともううちの子にしてしまえ、という気持ちにもなってくる。
のみならず、ついで買いした文庫本などもいつまでも読破することなく、本棚の脇に積まれたままである。
本当にどうしたらいいのだろうか。ポール・ギャリコとか、数頁読んで合わなくて結局読み進めていない。誰か楽しい読み方をおしえてください。
だいたい猫の出てくる小説は実物の猫に比べてどうして退屈なものが多いのだろう。謎だ。犬は洋の東西を問わず感動巨編が結構出てくるというのに。猫はネット画像や岩合光昭の写真集や竹本泉のマンガで、私は充分である。煽り商法などいろいろあるが、猫の写真だけがかわいい某作など立ち読み十秒で終了したのはいい思い出。
ついで買いというと、マーガレット・ミラーもミランダ・ジュライも止まっている。理由はよく分からない。「こういう小説を書ける素敵な私」というのが透けて見えるからだろうか。そしてその素敵さがきっと、私には今ひとつピンとこないからなのだろうか。
で、最近の私が読んでいるのはもっぱら「枕草子」と「リルケ詩集」である。どちらも古典。枕草子はこの年齢になるまで良さがよく分からなかった。が、ある時必要に駆られて読んで奥深さに自分でもびっくりするほど感動した。この随筆は明らかに子供向きではないと思った。清少納言はやはり、明らかに天才であった。
また、リルケは、この人の着目した風景が気に入っている。哲学的な考察などは勉強不足であまりよく分からないものも多いが、大変、しみじみとする。一度で読んでいても呑み込めないので、必ず二度読み。そしてなんと美しくて静謐な世界なのだろうと感動する。20世紀の前半、第一次世界大戦の前後から二次大戦前までのあの時代。多くの人々が賞賛して余りあるあのノスタルジックな時代。戦後、日本ですら多分都会にあふれた自称文人・詩人の多くが焦がれた古いヨーロッパ。そういったゆっくりとした時代をそんなものとうに過ぎ去ってしまった現代で味わうというのは、自嘲であろうか(まあでも、そうやっちゃうんですけどね。書物に憑かれた人って、多かれ少なかれどっかマゾヒストなところってあると思うの)。

最近、世の中が小さなことでひどく大騒ぎするように感じる。皆多分、やたらに騒ぐことで、何か自分の心の中の悪いものを追い出したいと思うのだろうか。
ああそういえば、今月は出雲以外は土地神様は不在だった。自分のことは自分でということか。I'll do it myself.
今月だけでなく、いつもそうなのであれば、なんと浮ついた、落ち着きのない世の中になってしまったのだろうと嘆きもするのだが。
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2016-09-22

真夜中のプーアール茶

突然だが、仕事がない。

40過ぎて、突然仕事が不安定になった。女は年齢的な問題があって、民間企業では専門職や相当仕事に評価があるものを除いては、ある時期を過ぎるとこんなふうに職務グレードが下がる傾向にある。若者に多い、ワープアと言われる女性も多いのだと思う。
企業面接を受ける度に思う、「あなたにはご主人がいるのでしょう、ローンだって組んでないでしょう」と言わんばかりの面接官の態度。
そもそも専業主婦をやれるのなら、20年間も働いているわけがない。家人は専業主婦を認めないんだとやんわりと説明しても、へらへらと笑って聞かなかったふりをする。ああ、そういえば多くの企業の面接官は、私と年齢が近い。もうそんな年になってしまったのだと思う。
で、最近の私はもう一か月ばかり、夜にまったく眠れなくて困っている。一晩中寝返りを打ち続け、明け方散歩に行った後に「ハヤクハタラケ」と小言を言う家人を会社に追い出し、もうろうとした頭でシャワーを浴びて崩れるように暑苦しい布団に戻る。
そしてなぜかその時になって身体がまさに、寝とぼけた睡眠を要求するのだ。
何をやっても、この昼夜逆転が改善しない。40前から薄々寝つきのわるい傾向はあったが、それに加えて仕事に恵まれない状態が追い打ちをかけているのだと思う。
別段布団シーツの上をのたうっていても、完全にお目目ぱっちり元気溌剌というわけではない。疲労したまま何時間も意識だけさえているのだ。そんな私の寝姿は、昼寝をしている犬や猫に似ている。あの、「別に寝なくてもいいんだけれども何もやることがないから寝ているんだ」という、諦めたような眠り姿。
犬や猫はかわいくて好きだ。でも、人間ではない。
私は人間なのだ。

純文学から少し引いて、長年の課題であった分野を学んでいるのだが、よく分からないが全体に空気の抵抗が多いような気がする。
園芸趣味を始めた頃、通りすがりの子から何を思われたか「来ないで!」とヒステリックに喚かれたことはいい思い出だ(笑)。それと同じで、私は実のところ、自分が8月も後半にさしかかってから始めた夏休みの宿題を「お前なんて宿題を提出できるはずがない、だから(俺らと一緒に)先生に怒られてろよ劣等生」と詰られている気分なのだ。

ごめん、優等生のつもりはもちろんさらさらないけど、別に劣等生ってわけでもないんだ私。

とかいうと、昨今では突然切れたり笑いものにしたり、リアクションの忙しい方がよく目につく。まあ、その手のアピールをする方々は、私など放っておいてご自分の評価をもう少しばかりあげたほうがよろしいのではないか、と思う。
私は仕事が安定しないことが目下の課題で、彼らにかまっている余裕がない。そこで昼夜逆転と闘いつつ、限られた時間帯でメリハリをつけるようにやっているのだけれども、そこにすら干渉が入る。
「筆を折れ」という干渉だ。

アマチュアであれ、プロであれ、断筆をコールされるのはぞっとすることである。
断筆など、多少の教養のある人間なら赤の他人にはふつう言わない。ところが、なぜだかある種の人々はこの断筆命令を非常に軽々しく行うのだ。文芸に親しみのない家庭で育った人々なのだろうか、とも邪推したが、そうとも限らない気がする。
今の世の中は難しい。ネットでは軽蔑と怨嗟が満ちていて、基本的人権は名ばかりで人間の尊厳は守られない。臭いものには蓋をし、弱者の訴えはなかったことにされ、若者の間では「夢」は事実上の「夢」になりつつあり、逃げ場所を求めて電子空間を放浪する人々は膨れ上がっている。
「子供」という表記を「子ども」に、「障害者」という表記を「障がい者」にしろ、という主張が児童福祉のあたりから上がって久しいが、こういった問題はキーボードを扱う世代ではもはや時代遅れであり、アナグラム遊びで頭を半ばおかしくした若者に「辞書通りの意味で言葉を理解しろ」と言わなければ、日本語を使っているのに言葉も通じない(実際私も、あまりにひどい状態に人間関係そのものが不可能になった人々もいた)。
言葉をないがしろにするということは、こういった「タブー」「はばかり」を軽視するということである。
言葉は生き、常に形を変えるものなので、昔の法則を後生大事に押し付けるのはよろしくないという傾向があるのだが、それでは年々報告数の増える児童虐待や、「やまゆり園事件」などは、どう説明するのだろうか。表面だけ美しくしても、内情は変わらない。ならどうしてわざわざ表記を変えようとするのか。流転してよい言葉と変えてはいけない言葉とは明らかに別れるのではないか。その基準を考える文部科学省や学者先生など「えらいひと」が実のところ浮世では軽視されているから、むしろ、そうなってしまっているのではないか。

そんなとりとめもないことを、眠れぬ時間帯に、えんえん、考え続ける。
例えば福祉など公的文書に触れたりするときは私だって「子ども」「障がい者」と表記するのだろう。それがルールであり、場の尊重、マナーだからだ。
ただだからといって電脳社会を含めた今の荒れた創作世界の実情に蓋をすることは私にはできない。同時に、職業安定所に通うことも、執筆や勉強をつづけながらでも、やめることはできないのである。
2015-10-25

日々淡々と

掃除をしたり、花のカタログを見たり、エスプレッソを家族に振る舞ったり。

多分、比較的一人でも平気な私が今、珍しく友達をほしくなっているからだろうと思う。
2015-05-31

GWに田舎に帰ってきました

東京には柚木の姓を持つ親戚はひとりもいないので、先のGWに九州の実家に帰ってきた。

冠婚葬祭以外で戻るのは実に結婚以来だから17年ぶりなのだが、結論としては帰ってよかったと思っている。
父方母方両家の墓参をして田舎風呂を浴び、小汚い東京に戻ってきたときは惨めさでいっぱいだったが(笑)。
東京は金さえあれば世田谷の一等地や目黒にもビルを建てることはとても簡単なのだが、田舎はそうでもない。そもそも土地に大した価値がない、というのは、去年土地に関する資格試験の勉強を少ししていたからまざまざと分かったことだ。さまざまな事情があり、勉強は勉強のまま終わりそうだが、最低限お役所の書類の見方程度は理解できるので何か今後役立てたいと思う。

本当に山しかない。あとはわずかな平地に田畑と、人気も車気もない道路程度と、目立つ数の空家と、かろうじて人が住んでいるようなわずかな住宅程度である。子供のころはトタンで覆うスタイルの茅葺の家もそれなりにあった。
つまり、私の実家のあるところは、過疎の進んだ田舎なのである。本物の。

ここは土地の9割以上が山林の、陰鬱とした緑に覆われた村である(町区分ではあるが、実質は多くの限界集落と老人介護施設を抱えた村である)。もちろん、子供や若い人たちの遊び場もない。皆口を揃えて言うからまず、間違いなく退屈な田舎である。若者は私でなくともどんどん出ていく。一部はやがて都会から戻るが、生家の煩わしさが皆嫌なのか、大抵は、車で一時間程度のところの「すこしとかい」な場所に家を構えたり、アパートやマンションを借りる。
したがって町内の子供の数は過疎の町らしく減少の一途を辿っていて独立した小学校ですら合併する。廃校というものは悲しいものだ(事実私は最終学歴校が消滅してしまっている)が、学校を作りすぎた都会やこんな過疎の田舎だけの問題かと思ったら、今は中小都市でも時々あるらしい。本当に少子化ってどうかならないものかなとは思う。それ以前に、今タイムリーに表示されている、「そろそろ独身じゃアレなんでとりあえず嫁さがしてください。」というネット広告さながらの問題もあるのだが。

ハコモノの真似事はあるが、老人の強い田舎のお役所の考えることと言ったら、……大体お察しの通りである。
こんな山奥から現在、人だらけの東京都練馬区に在住していて、我ながらよくこれだけの環境の変化に耐えられたものだと思う。若さゆえの無知って怖いですね、無敵ですね(笑)。

主人の反対を押し切って飛行機で田舎に帰ったのは、自分の精神状態が少し厳しくなってきたことと、まともに墓参りもいかないということには何か問題は出て気はすまいか、ということと二つある。さりとて現在付き合いのない兄弟とベタベタとなれ合う余裕はない。盆まで待ってもよかったのだが、どうも気持ちが落ち着かない。
桜開花の前、病に臥せっている父の具合を聞いたら、悪化していてよろしくないと言われ、まあ元気なうちにいろいろ言っておこうと思ったという娘としての気持ちの事情もある。
そんなわけで帰った。一人で。
いや、本当によく食べた(笑)。田舎から離れてから二十年、大分頑張ったが、母の手料理にはいまだにとても追いつけない。これは私のほかの兄弟も同じことである。料理上手な親を持つということは、幸せなことである。
九州独特の甘目の味付け(寒い地方の砂糖を多用する甘好みとは違い、塩辛くしない丸い味付けという意味での甘目である)の料理は自分の田舎育ちというルーツをしみじみと思い起こさせた。私の主人は生まれてこのかた東京から離れて生活したことはないのだが、私の料理に塩気を求める。というより、コロッケをソースで黒くする食べ方に私のほうが目を丸くしてしまったが、「こち亀」では両さんが同スタイルでおいしそうに頬張っているので、これはつまり、そういうことなんだろうと合点した。どこがいいとか悪いとかではなく、人間は子供のころの味覚が一生続くものなのである。
つまり私は料理が上手でない。

ただ、いろいろと興味深い話も聞いた。
今私が上で語った諸問題は、田舎では非常によくあることであり、「限界集落」「老人介護施設」「空家」「少子化」「教育施設の合併」は、文芸の世界でもよく話題に出される。本当に、田舎というところはコンテンツがとても少ないため、どうしてもこういった話題に頼るしかない。その退屈で楽しくない、暗く空しい話題の何百回もの強制ループは同時に、人々が全員で村そのものの口伝者たりえる古い土壌にも由来しているのだろうと思える。ただもう古いばっかりなんです、うちの田舎。
そういえば、安岡章太郎氏の随筆をいくつか読んでいてつくづく思ったが、昔の純文学作家はもう村社会であろうかと思えるほどに全員が知り合いという状態だった。デビューの状況はバラバラでも、出版社が盆暮れに催すパーティーでいやがおうにも顔突き合わせ、知り合いになってしまうのである。今は出版社の数も増え作家の数はもっと増え、昔のように律儀に華やかな場所に出席しなければならぬと考える人ばかりでもないだろうから、状況はだいぶ違っているようであるが。
ある種の村社会である純文学の社会は、今でもかなり厳格に守られて存在する。ただ、今は偽物とそれに騙された人も多く出回っており、それが恐ろしくて私はしばらくの間、小説と向き合うことができなかった。

あまり、現在の社会を構成する難しい問題に自分の言を加え置くことはおこがましく、私にはできない。ただ降りかかる火の粉は払わねばならぬし、己の頭の上のハエは追わねばならぬ。
精神的な問題の限界については、またいつか。

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theme : 史跡
genre : 学問・文化・芸術

2014-10-19

たまに来るわけです。

職場を変わってから忙しくてブログの更新どころではない日が続いている。
んええ、また転職したんです、また。文筆業でないのが残念な話ながら。
本当に落ち着かない。親不孝で、どうも生まれる家を間違えたのではと最近はいぶかしんでいる。親族の中でひとりだけ東京で生活しているわけで、あ、でも今年従弟が一人、上京したか。会ったことないんだけれども。

今の仕事は、好きです。忙しいし、疲れますが。
ただ本当に一日中仕事のことばかり考えているので、創作とか生活なんかどっちらけになっていて、ただでさえ放置気味な部屋が荒れ放題になっているのは由々しいことだと思っていた。
で先週から少しずつ、部屋を片付けたりしているわけですが。やはり創作する気力はない。
先月末は酷いプレッシャーがかかっていて、(先生には申し訳ないが)ダイッキライな作家の書評が課題に出て、ヒイヒイいいながらこなしたり、趣味資格の試験がかかっていたり、仕事の納期が大変だったり(あ、文筆関係ではないです、くどいようですが)。
ただ連休明けから、少し余裕が出てきてほっとしているところ。書評では無理がばれたのか、努力の割に結構散々な詰られようでがっかりしたってのはあるけれども。試験は分からない。運が悪ければ落ちてるでしょうが多分受かってるだろうけれども、所詮趣味資格なのであんまり旨みはない。

今日はオフの日なので自分の書きかけの野放図の小説をちらちら読んでいたが、何を書いたらいいのか迷っているような、そんな印象を覚えた。
多分、どうしても言いたいことがないと書いていてもあまりよく上がらないのではないか、と思う。普通に読めるが、ただそれだけの場面を10も20もつなげて、それを読んでいて果たして楽しい人がいるのだろうか。いやいるかもしれないけれども、今の私はそれを書いていたときよりうんと捻くれていて余裕がないので、あまりいいものを作れる余裕がない。

なんとかならないかな。
仕事は楽しいんだけれどもね。
小説の次くらいに楽しいんだけれども、ほかがいろいろとあまりよくないので。
全部楽しいなんてことないんだよなあ、世の中には。
プロフィール

Chiduru.Y.

Author:Chiduru.Y.
小説を書いています。
しばらく更新が途絶えていましたが、また肩の力を抜きつつぼちぼち書いていこうと思います。

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