--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010-12-31

『コスモス文学2月号』到着と、年末のご挨拶

今年も年末に、2月号が到着した。通算379-381号である。
今号には、拙作「梁走り夜話」が掲載されているので、お手持ちの方はどうぞよろしくお願いします。

スケジュールの都合があるので、2月号の書評は早くて1月の中旬以降か、或いは3月に入ってからになるかもしれない。行き着けの投稿サイトで少し催しを企画していたり、1月の上旬中に月末締め切りの作品を完成したいためである。

本年は、柚木千鶴というハンドルネームとしての活動は、やや地味なものとなった。
原因は、インターネットでの活動に身を入れすぎてしまったことと、それによる疲労である。
今は文芸といえども、パソコンを持ちインターネット活動をしなければ若手は追いつかない。
そこで深く悩むのは、文芸のありよう・よい作品への挑戦などを考えるよりも、そういう作家としての向上心を遮る状態をよしとする、一部の堕落したつきあいである。
文芸とは書く作品世界に、自分の品格を表すものである。そこに日常の瑣末な追い越し意識だとか、脚を引っ張る言葉などを織り交ぜるのはいかがなものであろうかと私は思うのである。
十月、締め切り前の最も大事な時期、私はその状態に酷く翻弄された。
まるで舵と羅針盤を失った大海の船のように、何のために自分は書き続けているのか、さっぱり分からなくなってしまったのだ。

書くというのはただのストレス発散行為ではない。別に崇高な自分の神との対話などと肩肘張る必要はないが、下卑た呟きやくだらないコミュニケーションのためにわざわざ作品を犠牲にする必要はない。それではせっかく生まれようとしている作品がかわいそうなのである。
たまには、習作で皮肉を書いて鬱憤を晴らすこともあるだろう。しかし、それはあくまでただの習作であり、他人に胸を張って勧めるものでもないのである。
それなのに「売れればいい」「自分がいい思いをすればいい」という感覚のもとに、グルになって汚いマネをする連中が多すぎるのではないか。それで、お前の内から漏れ出でる文芸は納得できるのか。

そのように臍を噛む思いをも、今年の秋はしたのである。

来年は、少し公募に力を入れてみようと思う。基本的に結果が出るまで発表はしない予定だが、年間で三作ほど、世に問うてみるのが目標である。一次突破、二次突破くらいまでできたらいいがとは思うが、どこまでいけるかは分からない。
もちろん、コスモスでの活動も地道に続けて行きたいと思う。

本年は身内に不幸があり、このブログ上でも新年の慶びは控えるが、お世話になった皆様に感謝をこめ、また来年もよろしくお願いします。
スポンサーサイト

theme : 同人誌
genre : 本・雑誌

2010-12-19

コスモス文学№377 童話部門書評

続いて童話部門である。
童話は、大人向けか子供向けかにまず着目し、子供向けなら何歳ぐらいを対象にしているのかというところまで考えた。昔とは違って、今は大人が(子供もいないのに)童話や児童文学を手にしてもさほど変な目で見られることもない。しかし境界が曖昧になったということは、同時に無茶な表現、野放図な展開も子供に理解させる力量が問われるということである。
今回拝読した四作は、それぞれに、「物語をどう描くか」ということを真剣に考えて綴った作品であったように思える。
私も勉強途中であるがゆえに、参考になることがあればどんどん吸収したいと思う。

■「青い地球」:小原冨美子 氏
小学校三、四年生向けの物語だろうか。環境問題について読者の関心が向くように、よく調べられていると思った。ただ、子供たちが帰る際に、空が白み始めていた……、という表現は夢の中での設定とは言え、少し残念なミス。冬は高緯度帯では夜明けは非常に遅く宵も早く、冬至の近いイブでは昼近くまで真っ暗である。北欧やロシアの童話などを参考にされたし。
文章については、子供向けにしてはやや難しい表現や漢字が散見され、逆に開かなくてよい漢字は開いてあったりと、ばらつきがある。
会話文内で、読点を入れる代わりの空白については賛否分かれるだろうが、私はこれは表現としてやや幼稚であるかと判断した。小学校低学年の国語の教科書では、読点に慣れず文字を追うことで精一杯な子のために、空白を用いることがある。しかし環境問題という内容が、もう少し年齢の高い児童向けのものであることから、読点に置き換えてもあまり遜色はないだろうと思ったのだ。
更に、会話文そのものについて。現代の子供たちの会話と比較した場合、半世紀も前の言葉遣いを持ってくるのは、これも童話という分野については賛否分かれるだろうと思う。というのは、童話は教育的書物という側面も担っているからで、砕けすぎた品のない言葉は宜しくない、という意見も恐らくは教育の現場では出る可能性があるからである。
ただし、いかに正しい言葉遣いとはいっても、過ぎれば文語である。現代の子供たちがこれをどの程度受け入れるかが課題になるのではないだろうか。

■「秘密」:樺澤淳子 氏
よくある、境遇の違う子供がその生活を変えるという話。物語も些かスマートに進んでいく物語だった。子供ではなく、むしろ大人の目を意識して作られた童話のように思った。
ただ、やや小手先の技術に走った嫌いはある。実際、この作者氏は物語の手馴れた纏め方より、一見よく書ける方のように思えるのだが、実際子供がこれを読んだとき、「何を学ぶか」までも削っているようである(一応童話というジャンルなので、子供の目を全部無視して書くことは私の感覚ではやや厳しいように思える)。
ただし、金持ちの娘が歪みも妬みも知らないために性格が優しく育っているという部分はよい着眼点だと思う。童話はプロトタイプに甘える傾向があり、金持ちの娘は「わがままで目立ちたがり屋」という書かれ方も多くなされる。また逆に主人公である貧乏な娘は「心優しく、親切で素直」という書かれ方に甘んじる例もある。その二つの人物の性格を掘り下げてリアルに近づけたのは創作意識においては良かったようにと思える。

■「月の落としもの」:佐藤紫寿 氏
一風変わった話で、よく纏まっていると思った。こういう傷だらけの割に調子のいい人物は、世の中に結構いるものである。口から先に生まれてきたような、それでいて間の抜けた、なんとなく誰からも愛されるような、そういう人物。
子供でも大人でも、楽しく読めるような作品に仕上がっていると思う。
佐藤氏は5月号で掌編小説を挙げていらしたが、こういった雰囲気の童話では文体の優等生らしさがよく作用し、安心できるよい一面が見られ、一息つける仕上がりになっていると思った。ことに、田舎のちょっと気取った木の葉には嫌味を言われて追い払われた月が、口の悪い都会のネオンたちには些か手荒にしかし温かみをもって迎えられた部分は、紋切りでないものを感じて好感を持った。
本作品は第115回コスモス文学新人賞童話部門奨励賞である。

■「龍の祝福」:伊勢学 氏
完成度の高い、良質な童話だと思った。宗教に基づいた童話というのはその体質上どうも堅苦しくなりがちで、善悪がはっきり別れ、説教じみていて敬遠することも多い。しかしこの物語は、童話の形をとっていながらも「ただ易しい文章なだけの物語」にせず、幸福のありようを追求するテーマが明確に見られている。子供でも大人でも「幸せとは何だろう」「どうすれば自分は幸せになれるのだろう」と考える心は同じである。それを「こう考えてはどうだろうか」と前向きに投げかける作者氏の姿勢はやはり創作はもとより、生に関しても強い関心を持っているとお見受けするのである。
クライマックスのシーンは会話などに舞台演劇を思い起こさせた。作者氏は少しこういった演出を学んでいらっしゃるのだろうか。
本作品は第115回コスモス文学童話部門新人賞である。

theme : 同人誌
genre : 本・雑誌

2010-12-19

「コスモス文学」№377 短編部門書評

続いて短編部門である。1年前はこの短編部門で私もお世話になったが、今年1年はこの長さの小説からは遠ざかり気味である。新年は気を引き締めて創作にかかりたいと思う。
それにつけても、面白い小説が次々と現れて軽く喜んでいる。私もまだまだ勉強中の身なので、皆様の素晴らしい技術などを読み、あれこれと思索をめぐらし、考えることがとてもためになり、感謝しきりである。

■「十五の春」:武内律馬 氏
決して派手ではないが、かっちりと丁寧に書かれた安定した文章で、しみじみとした思いにさせる一作。田舎の昔の素朴な風景を優しい眼差しで描いており、じわりとくるものを感じた。走り回って畦を壊したら私も随分怒られたものであるし、近所のおばあさんとも仲良く話せていたことを思い出す。今、そんな風景はどれだけ残っているだろうか。
物語は淡々と進められており、小説に娯楽を求める人にはやや物足りないと思うが、この小説はそういうところに重きを置くものではないのだろう。多くの人に支えられ重い病から立ち直った達夫は、その後どんな人生を送ったのだろうか。沈着で豊かに生きたに違いない。
真面目に地道に生きることの美しさ、素晴らしさをこの小説に読んで清清しい気持ちになった。

■「青空」:若狭太郎 氏
コスモス文学は昭和の中期から後期にかけての時代を書いた小説がとても多い傾向にあるが、この作品もそんな感じである。
この作品で特筆すべきはその構成だろうか。思ったことをずらずらと書き立てて適当に章分けをしたわけではなく、引きも盛り上がりもよく考えて組み立てられている。
ただし純文学の形を借りてはいるが、娯楽傾向がやや強く、軽妙に最後まで読ませる筆遣いを感じるが、同時に「どこかで読んだストーリー」をも感じてしまうのが残念である。
この物語は仲居の連れ子である少年が主人公であり、「僕」はただの語り手に過ぎないのだが、ところどころ「僕」が見ていないシーン(鶏小屋でボスチャボを襲うところなど)をなぜか「僕」が様子を事細かに語っているというシーンがあり、ここにライトノベルなどで盛んに注視される「視点の乱れ」を感じた。そんなシーンを淡々と「~ではないか」で抑えても、充分少年の死は肌で感じられる。
青空と、少年の存在をリンクさせておけば、タイトルに繋がるが、少年の死と青空を結びつけるのは、些か唐突な感じがした。船着場や田舎のシーンの描写などは素晴らしいと思う。

■「浅き夢」:林紘嗣 氏
かなり計算を重ね、論理的に話を進める作者氏だと思った。文章には浮ついたところがなく、どっしりと落ち着いた熊のイメージを髣髴とさせる。
裕二と桃子、道春と幸、悟と愛理、そして番外だが中田と美樹という四組の男女の物語を四十六枚という枚数に収めているが、一読して思ったことには、彼ら人物の個性がいずれも弱いというところだった。
もちろん描き別けのポイントはちゃんと踏まれている。しかし、例えば裕二と道春の悩みパターンがどうにもあまり差がなく、桃子と幸の喋り方にも差が見られない。いずれも人物が乖離してボンヤリした感覚である。
ストーリーも、どうも曖昧な部分で終わっている。裕二の驚きも電話口の幸の嘆きも、やけに冷めていて臨場感がない。淡々とした文章は空ろな色を帯び、熱に欠けた突き放した筆遣いに終始している。
唐突に「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメの人物について思い出した。総監督の庵野さんは、エヴァの登場人物は全員、自分の分身みたいなものだと語っている。シンジも血液型A型的思考なら、ミサトやリツコもゲンドウもA型的思考と、そういうのだ。
この小説は、もしかしたら作者の林氏のセカイ系文学に程近いのではないだろうかと、そういう理解も出来るなと思ったのだった。

■「掌の因果」:秋生司 氏
娯楽小説としては大変面白い域に達していると思う。映画を観ているような感覚でストーリーを読みすすめることができ、引っかかる部分もあまりなく読み終えた。
普段私は戦争ものを書かないし読まないが、素人読者にも武器名や知識を振りかざすことなく、読者の場に立って物語を描き続けることができるというのは、書き手としての優れたデリカシーであると思うのである。
また、的確で描写の行き過ぎや感情に流されない表現の数々もよかったと思う。章ごとの視点の切り替えも本来なら相当のセンスを要求されるが、これが負担なく読めたのは特筆に価すると思う。
欲を言うなれば、途中で挿入された宇宙ステーションのエピソードと、それが繋がったラストの、ストーリー全体との繋がりのまずさだろうか。
グリンという主人公を描ききることだけに着目していれば、その生死観を前半部から出していればストーリーに直接関与できたとも思うが、その辺りがやや唐突である。テーマを暗示させる掌のエピソードも、もう少し作中で多く見たかった。
それからシャインという女性。私が女性読者だからかもしれないが、ただ綺麗なだけの平凡な女性というのは少し残念に思えた。もう少し魅力が欲しい。
ラストにグリンに射撃したのは、誰だろうか。この辺りも、リアルを無視しあくまでも物語ティックに纏めるのであればそのシャインであれば、大変インパクトがあると思うのだが。
本作は第115回コスモス文学新人賞(短編小説部門)である。

theme : 同人誌
genre : 本・雑誌

2010-12-14

「コスモス文学」№377 掌編部門書評

さてさて、大変遅くなってしまったが、377号の書評。やはり私は若輩者であり、読み込みもかなり甘いところがある。できる限り頑張った読みを行っているのだが、それでも至らぬ評になる危険性は否めない。
また、多くの方がこのブログをご覧になってくださっているし、時には作者氏ご本人もいらっしゃってくださっているので、非常に恐縮に思う。
まことに拙く、読み違えも多々あるかもしれない評であるが、こんな読者もいるのだとご笑覧いただければ幸いである。

■「夢戻り橋」:細川いをり 氏
しっとりと落ち着いた、安定感のある文章である。
ところどころ表現の拙さがあるが(作者氏は若い方なのだろうか)、概ね安心して読めた。
主人公が男性であることに気がつくまで、時間がかかった。高度経済成長という時代の空気があまり感じられず、些か違和感を覚えた。
幽霊話に持っていくのは、やや唐突な印象があった。時代設定は悪くないが、それが故に奇を衒っているようなイメージがある。文章に卒がなくすらすらと読めてしまうが故に、余計にそういうところが目につく。
本来の文章センスは比較的高い位置にある方なので、主人公の年齢を考慮した描写や背景の効果的な表現、挿入するエピソードのこなれに着目したら、どこか不自然な作風はがらりと変化を遂げるはずである。

■「午後八時」:黒木一於 氏
途中で小説の雰囲気が変わってしまっている。文章はこなれていて、人情味溢れるやりとりを楽しく読んでいたのだが、やや冗長な印象を受けていた。……が、娘が帰ってくる辺りから、上手く纏まらなくなったのだろうか。昭和三十年代の雰囲気は、私がまだ若い頃の田舎のバーなどでなんとなく想像がつく(田舎は文化が遅れてくるものだから)し、描かれたその雰囲気はとてもよかったのだが。
娘がしきりに男を帰らせたがった理由もよく分からない。学生が制服のスカートを短くしたがったのは、平成に入ってからの流行ではなかったか。
化粧の仕方も現代的で、舞台のスナックは昭和にできたものでも実際の物語の進行は現代と思って差し支えないのか、しかし、前半部をよく読み返してみたがその説明はない。実際、定年退職して開いた店が舞台では、当時主人は六十くらいだから、現代が物語ではもう夫婦二人とも高齢者になっているはずである。

■「人斬り竜蔵」:浜由子 氏
浜氏の内側へ向いた小説は、いつ読んでも不思議な印象を受ける。最初読んだ人はその無頼で唐突な始まりに驚くかもしれないが、じきに不可思議で魅力的な世界観に引き込まれていくのである。
ベロキラプトルという恐竜は少しネットで調べたが、随分敏捷な恐竜の様子で、現代に実在したら面白いだろうなとは思った。今回の話はほんの少し現代の常識からずれた異世界の物語だが、おかしなリアリティがあり、楽しく読めた。人間を突き放し、甘やかさない書き方をしているのは、この作者氏の特徴だろうか。

■「十菊六菖」:藤波舞 氏
一般的には、「六日の菖蒲、十日の菊」つまり六菖十菊と言われるようである。ラストで「十月の菊に六月の菖蒲」と書かれていたが、校正漏れに目がいってしまった。極めて残念である。
作中で「自惚れの強い」と二度も書かれている奈保子だが、私の目には、非常に特徴のない、平凡で意思が弱くただ感情的でご都合主義な女性に読めてしまった。そもそもこの主人公は、自惚れるほど自分を意識していないように見える。自己愛とはもっともっと自分に対する愛着と憧憬が強く、その影から離れられないような性質ではなかろうか。
文章は、硬い文を意識しているが、なぜかいまひとつ書きなれていない印象を受けた。砂っぽく、また思ったよりこなれていない。自分のものになっていない個性で無理に描いているように思える。藤波氏の本来の個性は別のところにあるのではないだろうかとふと思ってしまった。
どこからか持ってきただけのネタを適当に組み合わせてそのまま使っても、それは小説として優れているとは言えないのではないか。
本作は第115回掌編小説奨励賞である。女性の悔恨については良く書けていたように思える。

theme : 同人誌
genre : 本・雑誌

プロフィール

Chiduru.Y.

Author:Chiduru.Y.
小説を書いています。
しばらく更新が途絶えていましたが、また肩の力を抜きつつぼちぼち書いていこうと思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。