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2011-06-19

コスモス文学№379書評 童話部門書評

童話は、今回は載った数が少なかった。
拙作のほかは一編あるのみだった。
詩やエッセイなども見てみたが、少し読み方が難しく感じ、今回は予定通り童話までで終了することにする。

童話2編


■佳子ちゃんとお友だち(きたのはじめ 氏)

童話では、どんなに単純なものであっても物語がなくてはならないと思う。優しい語り口調で、過疎の村やそこの小学校の風景が頭に思い浮かぶのだが、まだ本作の場合は設定を語っただけではないか、とも思える。人物が動く前に物語が終了してしまって、惜しい気になった。
性格がよくて皆から愛される佳子ちゃんが、友達の太郎君と物語の中でいっしょに生き生きと飛び回る姿を見たかった気もする。


■梁走り夜話(柚木千鶴)

本作は第116回コスモス文学新人賞(童話部門)である。
(自作につき書評省略)


なお、コスモスは諸事情あり、今年の夏いっぱいまで休刊となった。再開は秋以降かららしい。
現在私は空いた時間を使い中央或いは地方の公募などを視野に入れて、長編を練っている。
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theme : 文芸同人誌
genre : 本・雑誌

2011-06-19

コスモス文学№379 短編部門書評

続いて短編部門書評である。
文芸日誌を読んでいると、ここでどうやら随分悩んでいたようにも思える。
本来なら四月に全部アップロードする予定だった。


短編小説4編


■人丹丸(黒木一於 氏)

これは読んでいて、さまざまなことを思った。傍若無人に振舞う野良犬たちの様子とそれに苦しめられる庶民。幼く、無知蒙昧ゆえに奇策を弄して病んだ母親を救おうと自ら縄につく庄吉。人情篤い奉行。そして訪れる母子の幸福の約束。
江戸の薬事情がいかに迷信で凝り固まっていたかも分かるし、また黒木さんは江戸の街をよくお調べになっているので臨場感があり、暗闇も明るさもまるで自分がその場にいるような気持ちになる。
この物語で私が特に素晴らしいと思ったのは、その長さゆえかもしれないが現代に通じる人の生き方や苦しみを上手に描ききっている部分だと思う。愚法に支配された庶民の生き辛さは、私もなぜか身につまされるものがあるからだ(いえ、犬という動物は大好きなんだけれども)。
黒木さんの作品に寂しさや虚しさの中にも情け深さ、優しさが必ず見えるのは、私は見習うべき部分であると思う。人はもっと救われるべきであり、もっと尊重されて生きるべきである。そんなことを思いながら、さて若輩者の自分がここまで行き着くまでにどれだけの努力が必要なのかを想像すると、やはり腕組みをして考え込んでしまう。


■ストロベリー・ジャム(林 紘嗣 氏)

読者層が絞れているようで絞れていないという点から頭が離れない一作だった。
一読したところ、トレンディドラマを観つけた女性がターゲットの女性誌向けといったイメージで書かれたものと思われる。しかし上っ面だけでストーリーが薄い。11月号の前作「浅き夢」から随分トーンダウンした。女性の視線をひきつける「料理」の表現が単純であることと、全体に意図的と思われるほど「ブレーキをかけまくった」平板な展開ということとで、どう読んでいいか戸惑いながら頁を捲っていった。
ただ、そういうストーリー上の難点はあるものの、最後まで読み進めることができたのは基本的に林さんの文章力が高いからであり、ざりざりとした猫の舌のような文体とともに今回は少し冒険をしてしまったのかもしれないと判断した。
読者としては、女心を掴むことが下手糞な主人公の悲しさ、かっこ悪さももっと描いて欲しかったのだが、この主人公がそんなミスを見せる場面には、なぜかそれを客観視して忠告できる同性の目がない。
この主人公はもう少しダメダメに書いてもいいかと私は思った。そのほうが愛嬌があって読者が好感を持つように思える。
なお、作中での表記「青葉」は恐らく大葉のことであろうと思われ、これは一般に青紫蘇とも表記されるが、紫蘇の青いものとして「青葉」と書いている例もネットでは散見される。ただ、作中のやりとりを見る限りでは、この場合は無難に「大葉」としたほうがよかったかもしれない。


■灰色の海豹(多良 満利夫 氏)

アザラシ、トド、アシカ、オットセイ。今すぐ全部漢字で書けと言われたら恐らく私は両手を挙げざるを得ないし、漢字を出されて「正しい読みを線でつなぎなさい」と言われても、少なくとも一瞬は考えこんでしまう自信はある。
海獣の類はどうも表記面からして苦手である。何者かからテストでもされている気分になって読んだら、ストーリーもそっくりお受験が重要なキーワードになっていたので、計算されてつけられたタイトルだとしたら多良さんには「一本とられました」と額を床につけざるを得ない。
全体として非常にソツのない、安心して読める物語だったと思う。導入の何ページかがやや特に色の表記に凝りすぎていて、私の目にはややくどく見えてしまったことを除けば、すんなりと読み進めることができた。
今回のコスモスは、なぜかきつい女性が多くヒロインとして描かれているようにも思え、本作もそういう印象が感じられる。ただ、これは私が女性読者として思うことでもあるのだが、女が攻撃的になったり厳しい性格になったりするのには原因がある。本作の主人公の妻も娘にお受験を押し付ける理由、それがもう少し見えて欲しいようにも見える。「(ママ友の)みんながやってるから」ということに、なぜそんなに彼女は拘るのか。誰もやらなければ自分もやらないのか、というと、こういう女性はそれでも何がしか理由をつけてお受験対策に乗り出すだろうと思う。主人公の行動はそんな妻の鬼気迫る感情の吐露から些か逃げ腰のようにも思え、そのせいか全体の完成度の割に余韻がやや不安定で弱い。
それでも描写は丁寧で勉強になるところがたくさんある。このくらい落ち着いた作品をいつか私も書きたいと思った。本作は第116回コスモス文学新人賞短編小説部門奨励賞である。


■遠流(乾 浩 氏)

普段あまり時代ものを読みつけていないので、ある意味、闇の中の手探りのような状態で読んだ。
時代ものは合戦が入るとどうしても時系列に沿った枠組みを重要視してしまう。そのためドラマ的な演出がしづらく、いろんな意味で色気のない展開と結末に終わってしまう。
前半から中盤にかけてはその状況が隙なく描かれていたように思える。剛健な文体の中にもふと優しい視点も混じっており、乾さんは女性作者さんなのだろうかと思ったりもした(私はペンネームにはあまり頓着しない。ただ、作者さん同士が見分けれられればいいと思っている)。
もっともストーリーに目を向けるなら、全体的に合戦部分に多く頁を割いたこの構成はややバランスを欠いたように思える。島流しにされた名門の武将が一人の人間として立ち直るというストーリーを前面に出せば、の話であるが。
参考までにこの宇喜多秀家の八丈島遠島の後を軽く調べたが、彼の人生のターニングポイントとも言える部分が史実での八丈島での生活には見出しづらかった。
ひょっとしたら途中で作者さんの言いたいことが変わってしまったのかと思えたが、それはこの秀家の「気付き」が弱く、多眠の後に水を飲んで憂鬱から立ち直っただけに見えてしまったからだろうか。私は読者として、こういう零落物は「今そこにいる」家族の存在が必要不可欠なようにも見えてきてしまうのだ。
それでも、ほとんどつっかえることもなく、退屈になりがちな布陣の描写も興味深く物語を最後まで読めたわけだから、乾さんの基礎的な小説の力は相当なものだと思う。
本作は第116回コスモス文学新人賞(短編小説部門)である。

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2011-06-19

コスモス文学№379 掌編部門書評

文芸同人誌をテーマに追加した。
さて、またしても遅くなってしまったが、久々にコスモス文学の書評を挙げていくことにする。
今回は読書中にいろいろと個人的に思うことがあり、実際、こういう素人批評を挙げていいものだろうかと悩んだ。私は一同人にすぎないが、まるで投稿作から挑まれているような、試されているような、そんな気持ちにもなったものだ。
コスモスは、基本的に読者同士が横のつながりを持つことはできない。ネットでは一部が活動しているだけだが、そういうドライなつきあい、わだかまりのないつきあいを好まない、体温までも感じられるねっとりとした関係を好む人には不向きなのではないだろうかと思うこともある。
私にとっては作品はあくまでも作品だけである。そこに人格を求めるのは危険なことであると思うのだが、たまに作者本人をアピールしたいかのような、そんなデベソ作品に合う事もある。
それが面白いという読者もいることだろう。ただ、私はそういうスタンスでは書評はしたくないとそう思うことである。

掌編小説6編


■神戸市北区(黒木一於 氏)

不思議な雰囲気の物語だと思った。黒木さんの小説はどこかでぽんと弾けるような個性があって、それが恐らく作品の質を大きく左右するのではないかと思うが、この作品はその表れの一つではないかと思う。やや推敲が荒い印象を受けるが、前のめりの前半部を過ぎると、突然道に迷い、その後妙な老人に道を教えてもらい目的地に到着する。物語の纏め方は現代の怪談ではよくある話なのだが、「読者に何を食わせるか」という点で学ぶところのあった一作だったと思った。
主人公は随分言い訳がましい人物に造られているが、この多汗症(という表現はないものの、そんな人物に思えてしまう)な焦りがやたらにリアルで、設計事務所についてからの淡々とした事務処理の対話が、ある種のおかしみを持ってしまうのである。つまり、さっきの老人は幽霊だ、仏様だ、わあ俺見ちゃったよ~、という主人公の興奮を無視する社員のそっけない態度が乾いた笑いをもたらしてくるのである。どうやら私が食らったのは笑いだろうか。


■宝の分け前(黒木一於 氏)

素直に、とても面白い話だと感じた。展開もおかしなところはなく、すんなりと懐に落ちていく感覚だ。時代物は雛形が決まっているので、コツさえ掴めればそれらしく書けるのではないか、と私は未挑戦の身ながら軽く考えてしまうのだが、それでもやはり軽妙な筆捌きはある程度の読み込みと書き込みが要求されるのではないかと思う。先の「神戸市北区」では少し筆に悩みのようなものが見えたが、本作ではそれが微塵も見えない。洒落た遠山奉行の裁きが気持ちのよい読後感をもたらした。
欲を言えば、伊吉の容姿を少し書きこんで欲しかった。独り者で年齢も少しいっている生真面目なだけの男、それだけではなかなか若い頃に放蕩の限りを尽くした遠山奉行の目を納得させはしないだろうと思える。
女たちからかけられた好意の言葉に鈍かったり、男たちから意味不明なやっかみを受けたりするシーンなどが縫いこまれていると、見事な遠山裁きはいよいよ色鮮やかに私の目には映ってくるように思える。


■文字栽培(浜 由子 氏)

文字に色付けするという感覚は、幼い頃にはよく聞かれた。私もネット上で時々、数字やひらがなが何色に感じるかという話に乗ることがある。
多分、児童向け学習用具(おけいこどうぐ、と呼ばれていたか)で数字や仮名を色分けしていて、その記憶があったのかもしれない。教育番組の影響もあるだろう。
そんなやりとりを何回か経験していたせいか、今回の浜さんの作品は、少し「これはこうなのである」といった論調中心で、物語としては些か弱かった気がする。文字が成る、そしてその文字を食らうという不条理。それは面白いのだが、もう一ひねり欲しかった気がする。ネタ話みたいなノリで、題材が勿体無かった気が。


■田園狂詩曲(盛田真一 氏)

純文学の薫り高く、読んでいて美しい表現が幾つもあって、何度も頷きながら読んだ。
重厚でありながら威圧感のない静かな筆運びで、本来の意味でのゆとりを感じさせる作品であったように思える。
全体を見渡すと描写にこだわった前半部のスローペース、後半の場面転換の不安定さがやや気にかかるが、これも読者の好き好きではないかと思う。祐子への淡い恋心、親戚の不幸によって打ち砕かれた再会の望みと、謎の洋間で一度だけ見た黒髪の大きな西洋人形。人形は祐子と、生まれて初めて見た外国人の女性とを彷彿とさせる、女性というものへの憧憬と私は読んだが、同時に死というものでもあるようで、異様な美しさを湛えている。その官能的かつ清純な美しさに「私」は奥深い欲望のようなものを感じて、また来よう、と思ってしまうのだろうか。解釈の分かれるところだと思うが、私はこの「私」が心の中のやりきれない不幸を人形に投影して、それを愛そうと思ったかのように読めてしまった。
ラスト近くの「正しく夏はそこで完成していた」という表現は殊に素晴らしいと思った。私も自分の小説にこういう一文をさりげなく添えてみたいものである。ただそこにいくまでには、もう少し勉強しなければならない。


■帽子の未来(青木桃子 氏)

「!」を多用した特異な文体で、好みが分かれると思った。不安定で感情的であり、少し絵画ティックにも思える。ファッション雑誌に載っていたら、あらそうですか、と思ってしまうようなスタイル重視の作品だと思った。ただ、その手の雑誌に載るにも、もう少し内容が必要な気もする。男に新しい女ができて振られました、というだけの内容なのだが、悪戯に騒いでいるだけのようにも見えるのだ。ただ、着眼点を帽子からよそに移さないのはよい手だと思った。女性的な感性を重視した作品は描く対象が落ち着かずに終わることがあるから。
なんだろうか、私なら散々大騒ぎして帽子を殴ったり放り投げたりした挙句、なんとなく一人合点して帽子と一緒に眠るんだけれど、青木さんの描きたかったことは恐らくそういうことではないのかもしれない。うむ、限界、しっかり読みこなせませんでした。ごめんなさい。


■要の見た夢(甲山羊二 氏)

些か子供向けで甘すぎる文体だと思ったが、文章に大きな瑕もなく、安定している。時系列をわざと乱した場面進行を行っているので、ここだけが童話などと違うところだろうか。
尤も、やや題材とストーリーがありきたりな印象を受けた。登場人物が少し弱過ぎるところに問題はないか。善良な両親と兄と弟。亀など、とてもいい材料なのだからもう少し活躍させても良かったのではないだろうか。
ただ、今回は今まで掌編を読んできても思ったが、本作はちょうどいい具合に柔らかく、癒された感はある。極端に技術を意識するわけでも個性で腹を満たそうとするわけでもない欲のない作品なので、これが編集部には評価されたのかもしれない。本作は第116回コスモス文学新人賞受賞作である。

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2011-06-19

水無月にて、傘つく季節です。ご注意下さい。

水だらけなのに水無月、乾燥してないのに傘つく季節。まるでビッ○カメラの宣伝文句のような矛盾した不思議な月、それが六月。

六月は陰暦で、現在では七月。本来は「水な(の)月」、水を田に入れるという意味で水無月だそうだが、全く関係はないが昔の米づくりは今と少しカレンダーが違っていたのかもしれない、と思う。
ただ、水稲は田植えから少なくとも花が散る時期(夏いっぱい)まで田の水を絶やしてはいけない。子供の頃水口を意味も分からず弄って随分怒られたことがある。絶えず新鮮な水を入れておかないと、稲の成長に影響するのだ。常に水の流れを作っておくということで昔の農家は余計に水の出入りを気にしたのではないかと私は思うが、実際のところはどんなものだっただろうか。

さて、稲の話は置いておいて、この季節になると毎年特に気になることがある。
傘の利用マナーである。以前、日傘兼用の折りたたみ式雨傘を(そこそこ値段がした)盗まれて、そのときの恨みがあるせいかもしれないが、ともかく都内では傘の利用マナーを知っていない人が多い。
私の子供の時分では、給食の食べ方・トイレの使い方とともに傘の使い方は学校ぐるみでかなり煩く躾けられたものである。給食の食べ方は悪名高き(どうやら高いということになっているらしい、驚いた)三角食べ、トイレは共用トイレの使い方の実際に下手な子が多かったのでの結果だろうが、傘はかなり煩く煩く言われた記憶がある。
いわく、傘差し運転は危ないのでいけません、いわく、前を塞ぐようなさしかたは危ないので、特に車通りのあるところではやってはいけません、いわく、使わなければちゃんとたたみましょう、エトセトラエトセトラ。
特に煩く言われたものの一つに「傘は杖ではありません、ついて歩かないように」というのがある。
足の悪いお年寄りや目の不自由な人の杖をつく真似をしてはならない、ということだ。

東京に暮らしてだいぶ経つが、結構いい年齢の男性までもが目の前で傘をついて歩くのを見ることがある。まるで私の目の前にそういう人が寄ってくるのかと思うのほど、本当によく見る。
中には、明らかに他人の目を意識してわざと音を立てたり或いは奇天烈な姿態で傘をつく人もいて、私はあまりに不愉快であるとき、そういう人を怒鳴りつけることもある。
そういう人々の「ごめんなさい」は必ず機械的で、まったく反省も感情すらも篭っていないことは分かっているのだが、それでも言わずにはいられないこともある。お前はどこの何人か、と言いそうになることも少なくない。

傘をつくのはなぜいけないのか。
先に書いた「足の悪いお年寄りや目の不自由な人の真似をしていることになるから」のほかに挙げてみる。
一つは、傘に余計な瑕がつくからである。また、代理杖タイプでは過剰に体重をかけてしまうことにより、柄が痛んで歪む。また、カターンカターンと傘の先を先に出して歩みとともに引っ込めて行く投げ出しタイプの傘つき行動は、つくときに受ける傘の衝撃を計算に入れていない。
それから、代理杖タイプの傘つきは、明らかに歩くときの姿勢が悪くなる。遊び半分でやっている子供にはそういうのが非常に多い。運動専門誌を見ていると、日本人は歩く姿勢が悪い人がとても多いそうだが、姿勢の悪い歩きのまま大人になるとどうなるかは大概予想がつく。ブランドもので着飾っているお兄ちゃんの歩き方がだらしないと「今まで誰からも注意されたことがなかったのか」と泣けてくる。
三番目には、傘をつく音は極端な大音量ではないものの断続的であり、結局は騒音に分類されるが、歩く騒音というのは他人に迷惑だからである。カツカツというミュールの音などが嫌いな人もいるが、それと同じ原理である。ミュールは大部分のものは構造上踵がヒール上と離れやすく、結果カスタネットと同じ効果で例のけたたましい音を出してしまうのだが、だからもっともいいのは踵とヒール上を固定する形のものを選ぶか、ヒールの先をゴムの多い、なるべく柔らかいものにするしかないのだ。
傘をつく人は「ものを雑に扱う、姿勢もよいとは言えない、他人の迷惑を考えない」人と思われても仕方がないと私は思う。

傘の歴史を少し調べてみたが、洋の東西では傘の価値がやや違うようで、西洋では傘は長らくぜいたく品で、遺産の項目の一つにもあがるほどであったそうだ。しかし和傘などはどちらかというと安価な材料を使って作る。
さらに、最近の日本人は若い人中心に「傘は使い捨て」という意識がある。これはコンビニなどである五百円傘、三百円傘の影響が大きいのかもしれない。
大きく立派な高級傘を大事に持ち歩くのはある程度年齢のいった人と、若い人では育ちのよさそうな人程度。
だって、本当に簡単に買えてしまうのだ。どこでも、外出先でも。
でもそこに依存して傘をついて回り、どこの人からこっそり「ものを雑に扱う、姿勢もよいとは言えない、他人の迷惑を考えない」人と思われるのは恥ずかしく、また悔しくないだろうか?

今野緒雪『マリア様がみてる』というライトノベルに、「レイニー・ブルー」という回がある。主人公が子供の頃から大事に使っていた傘をなくすのだが、べつにいいところの子ではない私ではあるが、これを読んで、子供の頃傘をよく糸で補修したりして使っていたのを思い出した。
ところで今の傘立てには五百円傘が結構な量入っていて、中には三年くらい使っている古参もあるのだけれども、こういう傘立てってどう評価されるのだろうか? 義母から貰った折りたたみ式傘など滅多に使うことがないのだが。

theme : ◆◆日々の暮らしを楽しむ◆◆
genre : 結婚・家庭生活

プロフィール

Chiduru.Y.

Author:Chiduru.Y.
小説を書いています。
しばらく更新が途絶えていましたが、また肩の力を抜きつつぼちぼち書いていこうと思います。

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