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2012-01-31

行動的な女は評価されるが、放浪する女は評価されない

その昔、日本には「歩き巫女」という女性のシャーマンが存在した。
恐らくは古代からいたのだろうが、室町、安土桃山、江戸に諸国を放浪していた彼女らの仕事は神の宣託を告げたり、占いをしたり、雇われて隠密行動をしたり、食い扶持に困れば春を売ったりするような内容だった。
こういう女性は神社などに定住することがなく、よほど運に恵まれて生活を保障されない限りは、ほぼ一生を放浪して終わる。諸外国と同じように、ある種民衆の最下層に属する女性たちだった。
「捨て童子 松平忠輝」という、隆慶一郎の小説が新聞連載されていたころ、その分かりやすい筆でこの歩き巫女の存在を知った私は軽く衝撃を受けた。
巫女というのはそれまで、潔癖なまでに清純で、神社で大事に大事に育てられるお姫様のような存在だと思っていたからだ。こんなに埃に塗れて薄汚れた貪欲な存在であったことなど、信じられなかった。

隆先生の名作の話題の後に拙い自分の小説の話になって非常に恐縮だが、以前コスモス文学に「梁走り夜話」という、小さな童話の三連作を書いたのだが、その中に諸国を定住せず放浪する母子の話を書いた。
主人公は、下手の横好きの博打好きな女。賭場に入り浸る随分不良な母親である。形式が童話だったのでそこまでは書き込まなかったが、こういう女は村人からは胡散臭がられただろうし、また、まともに職に就く気にもならなかったのだろう。女は賭場に出入りする鬼に目をつけられる。この「鬼」というのも定住せぬ異形の存在として描いたが、女は自分の息子が突然神隠しに遭った時に、鬼の求婚を退けた(=まともに生きることを決意した)。
そして鬼は女の息子を無償で見つけ出した後に黙って去り、母子は村に本当の意味で受け入れられたのだった。

世のキャリア女性は、自分で動き、活動することで高い評価を得る。
じっとしていても金も人脈も転がり込んでこないのは男性と同じである。
しかし、その行動は必ず明確な目的がなければならない。的を絞り、効果のあるいくつかの動きだけに絞らないと、いずれ世間から信用を失ってしまう。
うんと小さい子供の頃、私は図書室に出入りするたびに「この作家さんはどうしてこの作品しか書けなかったんだろう、大人向けのお話が書けなかったんだろうか?」と不思議だった。
プロの作家など、本当は興味さえ向けばどんな分野の作品もソツなく書けるのだ。けれど、それは下手をすれば「自分自身の書きたいこと」からブレた創作になってしまう。多くの作家はそれを恐れる。マルチ作家など、全作家からみたらごく一部であろうと私は思う。

「もういい大人なんだから、活動する場所くらいちゃんと決めなさい」というプレッシャーは私にも日々重くのしかかっている。子供のように節操なくあっちをかじってぽい、こっちをかじってぽいはダメな手ということだ。
テレビなどに多く登場するマルチタレントは、実は個性的なタレントの中でも極めて特殊な人々であるということは、私たちは心しておくべきだと思うのだ。ゆめゆめそれに憧れて、本業とは随分と畑違いなところにケンカを売って騒がないように、と。
「行動」ではなく「放浪」し畑違いなところで騒ぎを起こす女性は、女性を定位置に置きたがるこの国では非難と軽蔑の的になっても仕方がないのである。
最近テレビやネットで少し話題になった事件とその評価を見ていて、人の振りを見て己の振りをつくづくと見つめなおしたことだった。
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theme : 時事
genre : 政治・経済

2012-01-25

綺麗な絵、心に残る絵

今日、ネットで綺麗なCG画を集めているコーナーを観て、「ううむ……これは」と唸ってしまった。

最近のパソコンアートの進歩はすさまじい。背景素材などどこにでも溢れていて、うまく組み合わせれば絵なんか不得意中の不得意の人でもちょっと見られた絵に仕上げることが可能である。
幻想的な宇宙の絵、見たことのない紫色の空やそれに浮かぶ二つの月、遠くに見える地球らしき天体。地上では遠くの華やかな雷を見つめるサバンナの象の群れと、それを眩しく照らし出す謎の強光。
こういうCG画が本当にネットではごろごろ転がっているのだ。
その透明感、鮮やかさ、そしてこんな表現は妙だが、清潔感。
いい世の中になったものだと思う。

ただ、その絵を一枚一枚見ていて、私は少し首を傾げることがある。
もしかしたら美術館に行き出すようになってから、初めて沸いた気持ちなのかもしれない。

かなり前の話になるが、ふとしたご縁で、現代美術の絵を鑑賞しに日本橋の小さな画廊に足を運んだことがあった。
現代アートなので、抽象的な色の群れが額縁に収まりきらぬほどに乱舞していた。その絵は、時に青く重く、時に金銀にきらびやかに私の心に飛び込んでは、様々な感慨であるとか、時には過ぎ去った思い出も呼び起こしてくれて、観ている間とても豊かな気持ちでいられた。
正しい現代絵画の鑑賞の仕方を私は知らないが、色の重み、重なり、ぼかし、そういった小さなインパクトの一つ一つを自分の心がどのように捉えるかを、もう一人の自分が鑑賞する作業がとても楽しかったのだ。

そういった絵はものの輪郭をはっきり描かないものであっても、ちょうどウォーターベッドによるマッサージのように私の心によい刺激を与えてくれて、やがては創作の力になることもある。
もちろん、古い名画などは言うに及ばない。風景の絵であればその風景のオリジナルにあった風や水や炎の音を聞こうとし、人物画であればそのドレスの衣擦れの音すら聞きたくなる。上村松園の日本画では、雪の中を和傘を傾けて歩く美人の吐く微かな息や、傘に降りかかる牡丹雪の小さな音すらも聞きたくなった。世界に入り込み、そこで世界を堪能する自分を私は幸福に感じ取ることが出来る。

しかし、ネットで目にするCG画の多くに、なぜか私は入り込むことができない。
いくら美しい星や花や月に目が行っても、動きも色も乏しく山や木々を描いているだけの古い山水画よりも集中して見ることが出来ないとは、一体どういったことなのだろう。
勿論、同じCG絵であっても上手な人の描く絵も多いだろうし、そういう人の絵は私もいくらか記憶がある。
じゃあ、その絵で一本小説を書けと命題を受けたらどうする。
私は書けるのか?
見たこともない美麗な海原や、魔法の国のような虹の草原や、地上なのか宇宙なのか分からない幻の土地に何かストーリー性を感じることが出来るのか?

不思議なことだが、私にはそれはとても難しい。
こんなことをここに書いて、ご覧になった方の中には「いや、自分なら出来る、CG画でコラボ祭やろうぜ!」とかいう威勢のいい人がいるかも知れない。さぞかし名作が集まり、賑わうことだろうと思う。
ただ、私はそういう催しには恐らく興味も持たないだろう。
催しがいくら楽しそうであっても、書けないものは書けないのであるし、感じられないものは感じられないのだ。
CG画は、ふと気分を切り替えたいときの閲覧や壁紙やブログのデザインには重宝するが、それ以上の余計な感情を切り落としてしまうように私は思うし、こうやってここまでいろいろとCG画師さんには大変失礼ではあるが、もう一つ「生きた」ムードが欲しくもなるのだ。

theme : 創造と表現
genre : 学問・文化・芸術

2012-01-09

書くということと、書き散らすということ

夏から中編にかかっているのだが、どうしてもフルタイムの仕事との時間の調整がとれず、腐心している。

私は子供のころからそうなのだが、取り掛かる小説の大部分が書き散らす類のもので終わってしまう。
小説は私にとって、洞窟探検のようなものだ。
子供のころ、世界最長の洞窟を日本の探検隊が調査するというドキュメンタリーがあった。今の知識からすれば自然洞窟など、人間が南アフリカやチリなどで作っている鉱物の巨大採掘用通路からしたらたいした深さでも長さでもないのだが、子供のころはそのスケールの大きさに有り得ないほどのロマンを見たものだった。
その自然洞窟というものは複雑に枝分かれしていて、ガイドとともにきちんと命綱のようなものをつけて歩かないと道に迷う。無論、行き止まりも多い。
私の「書き散らす」タイプの小説は、迷子になった挙句行き止まりにぶつかって放り出した探検と同じだ。丁寧に細部を見直して新しいわき道を見つけるなり、ダメな部分を削除してやり直せば完成という出口にたどり着けるのだが、それにはある種の注意力と情熱、そして根性が必要なのである。

小説を論文のように組んで書くという方法もある。プロットを立てるというものだ。嫌いではないが、プロットの緩さを間違えるとこれが途端につまらなくなる。それでも書きっぱなしよりは道筋をたどれるので、迷ったときには威力を発揮する。

子供のころと違って、今は続きを書こうと決めたら大抵の書き散らし作品に続きのわき道を見つけることは可能だが、ここ十年ほどどうもその情熱が沸いて来ない。あまりよい傾向ではないと思いつつも、さし当たっては今取り掛かっている小説をうんうん言いながら書き続けるしかない模様である。
今のところ公募に出す予定の作品ではないが、これが終わり次第公募作品にまた取り掛かりたいものである。

theme : 創造と表現
genre : 学問・文化・芸術

2012-01-01

明けましておめでとうございます

旧年中はお世話になりました。
今年も宜しくお願いします。

さて、「羽根楽譜」も三年目に突入した。
去年文芸同人誌の「コスモス文学」が終了し、新たに別の文芸誌に移行しようか、それとも公募一本に絞ろうかと案じているうちに年が明けてしまった。
文芸同人誌にも流れは二つあって、一つは純文学系の昔ながらの同人誌。もう一つは漫画同人誌の一分野である、主に若い人が参加する文芸同人誌。本当はその間にSF物であるとか推理物であるとかの同人誌もあるはずなのだが、大抵は後者に吸収されているようである。
実は、私は後者の裏方を知っている。主催がしっかりしていない同人誌は参加者を纏めることが出来ず、分裂したり理由なしに発行が無期延期になったりする。また参加者に自分勝手な人間がいると、主催を翻弄したりやる気を奪ったりして発行に漕ぎ着けさせない或いは散々に主催個人に傷を与えてしまう。もちろん、うまく行く場合もあるが、これはシステムが優れているか、主催のカリスマがそれだけあるということなのだろう。
文芸に目を向ける人というのは個性的であったり、生き方が特殊であったりする人が多いので、どうしてもそういうトラブルにぶつかってしまうのだ。
どこかの公募に職業欄を記入するところがあっても、そこに注釈として「現在就業していない人は~」と書かれているのは、還暦を過ぎた応募者に配慮してのことか、それとも……、という話だ。

去年から取り掛かっている小説も実は存在する。ただ、これをどのようにするかは考えあぐねている。
純文学と称するには寸足らず、ライトノベルと称するには年齢層が上すぎ、どうにも半端な内容であるからに、果たして読者が出てくるのかどうか、誰かに問うてみたいと思うところなのである。

まあ、せっかく開いたこのブログがあまりつまらない愚痴に終わらぬよう、今年一年は踏ん張り年なのかもしれない。悩みつつも志を確認する、年明けの昼時なのである。

theme : 季節を感じる
genre : ライフ

プロフィール

Chiduru.Y.

Author:Chiduru.Y.
小説を書いています。
しばらく更新が途絶えていましたが、また肩の力を抜きつつぼちぼち書いていこうと思います。

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