--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013-12-25

承認欲求の地獄とは

小説を趣味にしていると、友人がどうもできにくいと感じる。
子供の頃はそうではなくかった。インターネット時代になってから、おかしくなった。
年齢的なものもあるのだろうが、どうも、そうではない。

殆ど経験したことのなかった、赤の他人からの当てこすりや皮肉、嫌味、そういったものに接する機会が非常に増えた。
慣れてくると、彼らは極度の承認欲求に陥っている病人なのだ、と理解するようにもなった。日本社会では「能ある鷹は爪を隠す」とばかりにただ人を演じさせる機会が非常に多い。ところがそんな彼らはそれなりに高等教育を受けてきていて、それなりに豊かな生活の中で育ってきている。それなのに、周囲が皆同じような人々で埋め尽くされると、結果として誰も自分を褒めず、顧みらなくなる。
「偉いなあ」「努力してるなあ」「すごいじゃん」そんな言葉だけで育ってきているというのに、大人になったある日突然、「そんなことはできて当たり前」「できない人はダメな人」「何を勘違いして威張っているの?」などという批判に晒される。そして、能ある鷹を意識する人になればなるほど、うつむいて黙り込み、小さくなっていく。

しかし、自分を鷹と思っている限り、そういう人は承認欲求の地獄から抜け出すことはできない。ダンテの『神曲』地獄篇にも、こういった生前(過去)自分がどれだけ素晴らしい功績を残してきたかを咆える人々は結構出てくる。しかし彼らが今責め苦を受けているのは地獄なのであり、過去の社会ではない。彼らは自らを永遠に鷹と思い続けているのだろうと思う。

実際にスペックが高い人になればなるほど、「なぜ自分がこんな目に」と嘆くことはあると思う。まして隣りにいる私のような呑気者がこういった記事でも書いていてそれを読んだとしたら、それは非常につらいことではないか、とも思う。
しかしそれでも、自分を鷹と思う人は自らの鷹を意識する責任を赤の他人に決して問うてはならないと私は思う。

少し話題は外れるが、飼い鳥の本などを見ていると、時々「猛禽」という項目に鷹匠などの飼う鷹や小型の鷲、或いはハリーポッターなどで有名になったふくろうなどと共に、なぜかキジ科の鳥が紹介されていることがある。
キジ科というのは、簡単に言うとニワトリとかウズラの類である。適当に放し飼いをしていたら鷲などに目をつけられて浚われてしまう家禽である。「禽」とはコトバンクによると鳥と同義だそうで、小禽=小鳥とすると、本来は中型の鳥類をさす言葉だったようである。無論そこにニワトリ・ウズラなどは含まれることになる。

「お前は鷹かとんびか」と問われたときにどうしても二者択一で考えてしまうのは四角四面であり、若い証拠でもあると私は思う。「いやーニワトリでしてン」とボケてみる柔らかさも必要なのではないか、と思う。更に、ニワトリはよくフランスや、時には中国を表現していることもある。ニワトリは美味であり、些か気の荒い家禽ではあるものの、人に慣れたらやけに可愛らしい態度を取ることもある。ウズラもくりっとした目が愛らしい飽きの来ない鳥類で、キジ科はなんでもそうだがひよこの類がともかくかわいい。
意味の拡大を考えていたらそのうち能ある鷹という言葉にも、その爪を隠すという態度にも、なんだかつまらないもの、小さいものを感じていくのが人間ではないだろうか。
能力は、放出して、最低限度くらいはアピールしてなんぼである。世の中には「宝の持ち腐れ」ということわざだってあるのだ。腐れた宝なんておぞましいものに過ぎない。そして赤の他人に承認欲求として噴き出すという、呆れた甘えに繋がっていくのだ。彼らのそれまでの恐るべき努力は水泡に帰す。



まあそんなことを書いている私も、ともすればそっちの方向に行ってしまいそうになるので、自制を込めてこんなこと言ってるんですけれどもね。最近、楽しくないことがネット上で結構立て続けに起こっていて、ネットとのつきあいかたをいろいろと再考しないといけなくなっているので。
スポンサーサイト

theme : 信じたくない現実についてのあれこれ
genre :

2013-12-17

立ち読みなんかしてあげない?

先日、別の筆名ではあったが、公募である太宰治賞に投稿してきた。
その筆名を知る一部の方にはこのブログも紹介してあるので、ご覧いただけていれば幸いなのだが。

公募の前後から周囲の空気が落ち着かず、ともすれば何もかも面倒な気分になってしまう。そういうこともあって、このブログに本当はもう少し早くログインするはずだったのだが、結局今日までずるずると延びてしまった。

太宰治は、芥川賞とその創設者の近辺のエピソードを知れば知るほどに、なんという不幸な人であったのだろうという気にさせられてしまう。当時の文壇は現在の私たちが想像するよりもずっと小さく閉じられたものであり、彼の持つ空気や個性、そういったものが明らかに大御所たちの望むものとは異なっていたのだろう、となんとなく感じられないこともない。冗談で「太宰は女にモテすぎたから他のブサイク作家にやっかまれたんだ」と言われているが、それは本当にただの冗談としても、しかし彼と、そして彼の作品のかもし出すなんらかの空気の違いというのが彼の芥川賞受賞を阻んだというのはうっすらと想像がつく。モテる人のオーラって、やっぱりそうでない人と違いますからねぇ。

で、そのいわくつきの太宰賞になんで殆ど考えていなかったのに応募したのかというと(予定だけは1年くらい前から考えていた)、一つはやはり、コスモス解散後どこに身を寄せたらいいのか深刻であったということが挙げられる。
全国に散らばる文芸同人誌というのは創設時のメンバーだけで作られていたり、或いは大学などのOB同人誌の形で発行していたりするようで、新規かつ一人で参加するのは実のところかなり敷居が高い。コスモスに入りやすかったのは、あそこがコンテストを開催していたからである。
僅かな文芸の知人も、「紹介をお願いします」と言うと、なかなか難しい顔をする。紹介ということ自体に大きな責任ができてしまうせいだろうと思う。まあ、年齢の高い人たちの集まりなので、私などが「……めんどくせっ」と思ったところで、全体が動くことなどまず100%ありえないのだ。年配者のサークルとは、そういうものである。

かといって若者の文芸サークルとなると、今度は暴れ馬のようなノリでこちらが疲弊してしまうことは想像に難くない。若いということはそういうことで、夢も希望も野心もぎらぎらと光っていて、しかしそれを制御できている人は一握りで、その一握りにミーハーな取り巻きが群がって、こちらもまた、「……めんどくせっ」となってしまうのである(^^;

先日から、インターネットでたまたま知り合った昔の知人や、彼らを知る人々が私にアクセスをかけてきているようで、どうやら昔のコミュニティに呼び戻しを考えているようなのだが、正直なところ私はそれに関しては何にも前向きに考えていない。
過去は、終わったことなのである。もう戻ってはこないし、どんなにハッタリをかましたところで彼らも私も大して大きな収穫はない。そういう、昭和の頃の田舎ヤンキーみたいな「ああン?」「ああン?」みたいな怒号とにらみ合いを続けても空しいだけなのである。
インターネットで初期の頃知り合った人々は、私が出会ってはいけない人々だった。私の人生においてかかわる必要もなく、また、存在すら知らないでよかった人々だった。
私は疲弊した。ただ、疲弊する以外のものは彼らから本当に何一つ貰えなかった。
ああ、「小説を書いている人間でも全く分かり合えない人々は存在する」ってことは覚えさせて貰ったか。


私は創作では、どうやら、殆ど一人で活動するほうが性に合っているということらしい。
誰かと小説を読みあって感想を言い合って、ということは勿論してもいい。でも、その相手というものは決して私の友人足り得ない、そういう運命のようなのである。
親友も友人もいないから、ライバルもできない。私よりも上手な人、私よりも至らない人、そういう人を何人知ったところで、結局は同じである。
温かい、血の通った感想が欲しい、痒いところまで手が届くような、そんな質問が欲しい、そんな気持ちにならないこともない。けれども、そうやって甘えてうまく行ったためしが、そういえば私にはかつて一度もない。
私に小説の感想を下さる人というのは、決して私と友達になろうとはしなかった。私の何がそうさせているのか、私は分からない。ただ、若い頃「あなたは友達なんかじゃなくてただの知り合いだ」というきつい旨の発言をした人が読者にいて、それ以来のことなので、納得しているといえば、そうなのだが。
そういえば、私の配偶者も、決して私の書いたものに目を通そうとはしなくなった。
既婚の創作の知人などは、必ず配偶者に作品を見てアドバイスを貰っているということなのに、私は全部一人でやっていかなければならないのだ。
ずっとそうだった。
主人を腰抜けなどと思ってはいないし、またそういいきれるほど私の書くものには魅力はないのだろうとは思う。
しかし一抹の寂しさがないとは言えない。そういう隙間に余計なものが入り込んできて、とても辛い思いをしたものである。


小説って、誰かに読んでもらうためのものなのにね。
それが叶わないなんて、私は何のために書いてるんだろうね。
プロになって、ぐうの音も出ないほどの高みに座して、そこからファンに書いたものを買わせなきゃ、読んでもらえないんだろうかね。


そんなふうに思いながら、太宰に向けた小説を書いた。
受かるとか落ちるとか、そんなのは何も考えていない。周囲は受かった落ちたそんなことしか頭にないようで、その視点の低さに私は空しいものを常に感じてしまうのである。どうしてもっと上の考えが頭に浮かばないんだろう、なんで半か長かしか考えられないんだろう、と、些か悲しくもあるのである。多分、そういう人々は、自分が実際に書いたりはしない人たちなのだろうな。だから小説を書いて公募する人間の気持ちなんぞ、全く想像もつかないんだろうな。

theme : オリジナル小説
genre : 小説・文学

プロフィール

Chiduru.Y.

Author:Chiduru.Y.
小説を書いています。
しばらく更新が途絶えていましたが、また肩の力を抜きつつぼちぼち書いていこうと思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。