2012-03-03
ツイッターは村社会
ツイッターを始めて2年くらいになるが、今のところそのツイッターでよい隣人に出会えたことはない。
どうやら、文芸であるとか文学であるとかの趣味を持つ人々は、あの場所ではビジネスライクなつきあいのオプションとしてか、もしくはブログの延長上のカタコトを呟く場としてしか見ていない気がする。
自分の名前で登録するのを2年も控えているのは、その様子を見守るという理由だ。ブログに手を染めるのも、プロバイダがサービスを開始してから何年も経ってからだった。
140文字で表されるカタコト(呟きどころじゃなくカタコトだろうなと私は思っている)に芸術性を求める人も確かにいるだろう。
しかし短歌や俳句、或いは非常に小さな詩としてならともかく、小説はちょっと難しいんじゃないかな、と思っていたら、案の定あまり創作に熱心でない人たちが「これこそが真の創作である」と鼻息を荒げている様子を多く見て、こんなことは言いたくもないがとても嫌になったこともあった。
小説を書いている人はある種のバランス感覚が大事だと私は常々思っている。
ある程度の年齢になって気がついたことだが、自分の頭の良さ、知識量を顕示したいために小説に手をつける人が小説執筆が好きな人には結構いる。こういう人々は確かに学歴や知能が高く、いろんなことを知っている。だから恐らく楽しいのであろう。
しかしそこで「恐らく」と仮定の言葉を使うのは、私が今まできちんと会って話した方々にはそういうタイプの人がほぼゼロだからである。勿論きちんとした学歴をお持ちで、実際の知識も豊富な方もいらっしゃるのだが、こんな方は実際の創作物にそれを嫌味なほど顕示するようなことはない。
たとえある程度書いていても、それはストーリーの展開のために必要な内容だ。
「世界の中心で、愛をさけぶ」というベストセラー小説があるが、これは作者の大量の知識を動員したことにより、読者の評に耐えた。ストーリーはその後隆盛を極めたケータイ小説と同じような展開で貧弱である、と評する文学好きもいたし、私の感想もそれに近い。
ストーリーに説得力を持たせるための知識は確かに必要だが、知識の顕示のために小説を書くようになってはならない、と私は思う。中には知識を得るために小説を読むという方もいるのだろうが、私がそういう読み方をするのは主に旧時代の古典などを読んで当時の世俗や人々の考え方を知るがためにそうするのであって、所謂娯楽的な読み方をするのなら、やはり分かりやすく面白いもののほうがよいように思える(じゃあお前はラノベだけ読んでろよ、と詰られそうだが、笑。無論、ラノベにも数は少ないけれども各年齢層の評に耐えうるいい作品はある)。
しかし、ただの知識顕示欲のために小説を書いている人が、そこで話を戻すがツイッターを使うとどうなるか。
文面から既にナルシシズムが漂ってきて、対話どころか絶句せざるを得なくなるのである。
無論、人嫌いで誰にも絡まれたくないのならその手もありだろうが、質問したいことも出来なくさせてしまう空気を作るのは、創作者としてどうかと思ってしまう。
私はどうも、そういう人種が苦手である。こちらからフォローをしても、いずれ外さざるを得なくなる。
そんなわけで、私はこのブログではツイッター連動は避けることにする。ツイッターは人の目を気にせぬごく個人的なミニブログだと割り切って使う人のほうが、いい楽しみ方が出来ているようにも見える。
ツイッターを使っていていつも思うことは、あそこはでっかい田舎だなあということ。噂話大好きの田舎では、有名人の誰かと誰かのケンカも娯楽。そして炎上も娯楽。場本来の娯楽の少なさを表しているということだ。
そんな田舎で少しでも楽しくやっていくためには、信頼できるリアルの友人たちとともに鍵をかけて小さなコミュニティに篭るか、他人のあらゆる干渉を様々な手段で以って振り払い自己を涼しい顔で保つか、どちらかしかないような気がする。
どうやら、文芸であるとか文学であるとかの趣味を持つ人々は、あの場所ではビジネスライクなつきあいのオプションとしてか、もしくはブログの延長上のカタコトを呟く場としてしか見ていない気がする。
自分の名前で登録するのを2年も控えているのは、その様子を見守るという理由だ。ブログに手を染めるのも、プロバイダがサービスを開始してから何年も経ってからだった。
140文字で表されるカタコト(呟きどころじゃなくカタコトだろうなと私は思っている)に芸術性を求める人も確かにいるだろう。
しかし短歌や俳句、或いは非常に小さな詩としてならともかく、小説はちょっと難しいんじゃないかな、と思っていたら、案の定あまり創作に熱心でない人たちが「これこそが真の創作である」と鼻息を荒げている様子を多く見て、こんなことは言いたくもないがとても嫌になったこともあった。
小説を書いている人はある種のバランス感覚が大事だと私は常々思っている。
ある程度の年齢になって気がついたことだが、自分の頭の良さ、知識量を顕示したいために小説に手をつける人が小説執筆が好きな人には結構いる。こういう人々は確かに学歴や知能が高く、いろんなことを知っている。だから恐らく楽しいのであろう。
しかしそこで「恐らく」と仮定の言葉を使うのは、私が今まできちんと会って話した方々にはそういうタイプの人がほぼゼロだからである。勿論きちんとした学歴をお持ちで、実際の知識も豊富な方もいらっしゃるのだが、こんな方は実際の創作物にそれを嫌味なほど顕示するようなことはない。
たとえある程度書いていても、それはストーリーの展開のために必要な内容だ。
「世界の中心で、愛をさけぶ」というベストセラー小説があるが、これは作者の大量の知識を動員したことにより、読者の評に耐えた。ストーリーはその後隆盛を極めたケータイ小説と同じような展開で貧弱である、と評する文学好きもいたし、私の感想もそれに近い。
ストーリーに説得力を持たせるための知識は確かに必要だが、知識の顕示のために小説を書くようになってはならない、と私は思う。中には知識を得るために小説を読むという方もいるのだろうが、私がそういう読み方をするのは主に旧時代の古典などを読んで当時の世俗や人々の考え方を知るがためにそうするのであって、所謂娯楽的な読み方をするのなら、やはり分かりやすく面白いもののほうがよいように思える(じゃあお前はラノベだけ読んでろよ、と詰られそうだが、笑。無論、ラノベにも数は少ないけれども各年齢層の評に耐えうるいい作品はある)。
しかし、ただの知識顕示欲のために小説を書いている人が、そこで話を戻すがツイッターを使うとどうなるか。
文面から既にナルシシズムが漂ってきて、対話どころか絶句せざるを得なくなるのである。
無論、人嫌いで誰にも絡まれたくないのならその手もありだろうが、質問したいことも出来なくさせてしまう空気を作るのは、創作者としてどうかと思ってしまう。
私はどうも、そういう人種が苦手である。こちらからフォローをしても、いずれ外さざるを得なくなる。
そんなわけで、私はこのブログではツイッター連動は避けることにする。ツイッターは人の目を気にせぬごく個人的なミニブログだと割り切って使う人のほうが、いい楽しみ方が出来ているようにも見える。
ツイッターを使っていていつも思うことは、あそこはでっかい田舎だなあということ。噂話大好きの田舎では、有名人の誰かと誰かのケンカも娯楽。そして炎上も娯楽。場本来の娯楽の少なさを表しているということだ。
そんな田舎で少しでも楽しくやっていくためには、信頼できるリアルの友人たちとともに鍵をかけて小さなコミュニティに篭るか、他人のあらゆる干渉を様々な手段で以って振り払い自己を涼しい顔で保つか、どちらかしかないような気がする。
トラックバック
コメントの投稿
Powered by FC2 Blog
Copyright © 羽根楽譜 All Rights Reserved.



